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自由という牢獄(というタイトルは重すぎる)

日記の更新しようと思って、気がついたらあっと言う間に前の日記から20日ぐらいたっている。だいたい時間がたつのたつが経つだったか自信がないので平仮名にしているぐらいである。ぐーぐるで調べるのも面倒くさい。

最近はルグゥインと飛さんぐらいしか読んでないが、大澤真幸さんの「自由という牢獄」はとても面白かった。読みたい本はたくさんあるけど時間がないね。

積読増える一方だな。

村上春樹 「騎士団長殺し」 スタバで読むのではあらない

(ネタバレも少しはあります)

 

「騎士団長殺し」発売日に買ったのに、やっとこさ読了。

ル・グィンばっかり読んでて、こっち忘れてた。

世界から注目されているプレッシャーって、想像できないなー。

話の流れや落ちはともかく、、、

その「物語を信じる力」を描く力量や執念はやっぱりすごい。

・子供という存在に対すること。

・女のいない男たち

東日本大震災

はモチーフになってるんだろうなあ。

2月に出して、普通の人ならちょうど3月11日辺りで読み終わるんだろうなってとこも、メンシキさんばりの計算なのだろう。

気になったのは、本編と関係ないけど、スターバックスを何度もディスってるところ(笑)と、音楽の聴き方に対する憂い。

後半のストーリーの勢いはちょっと[世界の終りとハードボイルド~]的な輝きがあった。

よくわからん理由で奥さんが離れて行って、イデアの人もメタファーの人もなんたらフォレスターの男も、わたやのぼるてきなめんしきわたるも、武器も(バットじゃないけど)完璧な隣人とか、ちらっと出てくる運転手とか、週一で会いに来る完璧な愛人とか、主人公はあまりお金を稼がなくてよくて、異世界にも行けるし、イデアの人のしゃべり方の特徴とか。カフカの門番みたいな顔の無い男とか、壁抜け的なこととか。。。

 

でもわたしはこのほんのほんとうのよみかたをしっている。それはしょくんにもおしえられない。このほんはそのようにして、できているのだ。そのようなよみかたには、すじがない。いどをつたってわたるいきもののように。かわのわたしのところにいるもんばんのように。あのせまいつうろのように。

しんじるということだけが、もじどおりのこのほんの、よみかたなのである。

 

 

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 

「壁と卵」の解題・あるいはカネという奴を信じないということについて。

2017年1月29日
これはただの文章、若しくは思考実験である。

金って言う奴から離れる。なぜならば……ということをいまから説明する。
例えば血液型占いや、血液型による性格判断が当たっていたとしよう。実際はどうだかわからない。そんなものないと科学が実証しているという人もいる。でも実際はどうだかわからないのはこの宇宙の構造も同じなので、ここでは、当たっているという仮定で考えてみよう。
A型の人間が複数いて、それぞれがA型の当てはまる項目に当たっていると感じたとする。その感じたこころは、そうだと信じたものである。かつて宗教がひとをそうさせたようにそうだと思わせられることでひとは暗示にかかる。いや、かからないかもしれない。でもかかるひともいるだろう。実際に血液型占いが当たっているかどうかは問題ではない。当たっているというこころが、こころのその部分をそういう風に定めている。
いまではインターネットにひとのこころを慰めるものがたくさんある。それは悪ではない。感じるこころの過剰さはあったとしても悪ではないだろう。ひとは虚ろう。言葉の羅列に序列や想定や判別、自らを除け者にされる差別、否応にも対応し難い苦痛に自ら進まねばならぬこともある。他者と自分は別の人間である。 別の人間であるということは、別の感覚を持つということである。それを同じ風に感じるであろうと想定するものが先の血液型占いに代表される想定である。血液型だけではない。宗教、思想、人種、性別、いろいろなものでひとは他者を、こう感じるであろうと想定する。例えば先の文章を「いろいろなものさし」で、といえば皮肉を言っていると捉えることもできる。そういうひとつひとつの言葉に一喜一憂する。金という言葉は、政治や宗教、思想や家族、社会や組織、個人や、その他もろもろの言葉よりもいまや強靭な言葉になっている気がする。これに匹敵するのはインターネットとかであろうか。
ジョージ秋山銭ゲバという漫画を描いてたころの金と、いまの金という言葉はとても違う意味のような気がする。言葉の意味は一世代で変わるものだから当たり前か。銭ゲバということばがあったときにはカネについていた印象には悪があった。きっといまなくなったのはその部分かもしれない。善でも悪でもなくただのカネ。でもその力は絶大に信じられている。しかし力はカネから生まれるのではなく、それを信じた多数の人間のほうから生まれるものである。その概念を選ぶものたちによって選びとられているのである。
多種多様な価値観がある。多種多様な生き様がある。それを短絡的に見誤らせるのはそうやって信じられている大きなシステムによる。
個別の小さなシステム(共同体やら家族)がまだ生きていたころとは違う世界にいる。そこでは他人のことを尊重出来ない人間になりやすい。あるいは、余りにもそのシステムからの要求が多すぎて人びとは疲れ果てる。まるで二流のSF小説のように、人びとはいろいろなものに小突きまわされているのだ。小突きまわされても、負け戦さだとわかっていても、私は卵の側でありたい。

「世界が終わる夢を見る」と村上春樹

亀山郁夫「世界が終わる夢を見る。」

のpart1神の夢ー1Q84アナムネーシスを読む。

象徴化の執念、全体を描きたいというものすごく強い意志、見世物の世界に騙されるという素直な心構え、アナムネーシス(想起)、人間の魂が真の知識であるイデアを得る過程、プラトン、神の夢、壁と卵の共同性、

村上春樹1Q84ってこんな話だったのかと驚く。もう一度読み返してみよう。

 

次の中村文則への文章も気になった。

京都と高知と上林暁

あけましておめでとうごさいます。(遅い)

  一月半ばに京都に行く機会があり、ついでにあの伝説の同人本(みたいな話を聞いたことがある)、「sumus」に関わられた山本善行さんの古書店、善行堂に行った。

善行堂にて、2冊の本を買った。土曜社という出版社が出してるアンドレ・モロワの「私の生活技術」と、マグダ・アレクサンダーさんの書いた「塔の思想」。どちらもあとで読んで当たりだった。

買ったときに、少し善行さんと立ち話をしたら、善行さんは高知の(私は高知在住)上林暁という作家がすごく好きで、その作家の本の選者もされてるとのことで、紹介してもらったので「星を撒いた街」という本を買ってきた。上林暁という作家、高知に住んでるのに全く知らなかった。

知り合いの煙草屋の親父が古本好きで、聞いてみたらよく知っていて、記念館にも行ったことがあるとのこと。

「星を撒いた街」、まず装丁がすごく素晴らしくて、本を買った嬉しさを感じる。まだ中は最初の、「花の精」しか読んでないけれど、こころにのこる。

高知新聞社にケイプラスという、月一回ぐらい出ている薄いフリーペーパーがあり、そこに島田潤一郎という方が「読む時間、向き合う時間」という連載を書いている。自分はこの連載を読んではいなかったが、妻に言われて見てみると、その島田さんが、この「星を撒いた街」の発行に関わっている夏葉社の方であった。不思議。

「この世界の片隅に」が何故こんなにも素晴らしいのか。

たまたま連れられて映画を観てきた。

アニメ映画である。「この世界の片隅に」というタイトルである。戦時中の内容だということと、漫画が原作にあるということしか知識はなかった。

観て、これは、なんということか、と思った。原作の内容も素晴らしい。映画の展開も素晴らしい。語り尽くせぬテーマでもある。

しかし、これは得体の知れない、それとは違うなにか?なんじゃないの?俺が感じているのは。。。

人は、何かが面白いやら面白くないやら、ことばで、あらわす。

人に話しかけたりして、あれがすごかったよとか、これはやばかったよなどと言う。何がやばかったのか確認するために何度も映画を観たり、原作を読んだり、監督の他の映画を観たり、資料を探して納得しようとする。

あーこれはあれだ、こーゆーことだと言いたい訳である。

しかし本来、モノを創ることを志す者はことばでは言い尽くせない感じをそこに込めたいがあまりモノを創るのである。イメージである。風景である。五感である。

あーあれはなんだ、簡単に言うとこーゆーことだ、と要約されて、圧縮されて、作品が人のあたまでまとめられてそれもイメージになる。キャラクターに落とし込まれる。監督に落とし込まれる。或いはジャンル分けされる。

しかし、本来人の作ったものはどんなものでも、その人にしか作り得ない、個性的なものだ。まとめられて、箱に入れられて、ことばに置き換えられて、でも、そうされる前にそれは、全く違うものだった。

経験したとき、驚く。びっくりして、何だったのか考える。作品をそのままを受け入れることが出来ればいいけど、なかなかそうもいかない。

たぶんこの作品が素晴らしいと思うのは、なにもそんなことは劇中では言わずに、そんなことを考えさせる、ことだ。

映画のそこかしこに、映画の、つぶ、を観ていた。かがやいていて、きらきらしている。キャラクターも、風景も、声も、喜びも悲しみも、ぜんぶ一緒になって。。そんな映画。生きている感じ。生きているものを尊んでいる、本当に普通のものを大事にしている、そんな映画でした。

 

須賀敦子「遠い朝の本たち」

 

父が一九七〇年に六十四歳で死んだとき、私は岩波の日本古典文学大系の揃いを、ごっそりもらった。父は会社をやめたら、一冊ずつ、読んでいくつもりだったのだろう。ほとんど、ページを繰った痕跡のないなかで、平家物語だけは、しっかりと読んだあとがあった。平家物語で私はもういちど父につながったような気がした。

幼いころは、父が本を買ってくれて、それを読み、成長してからは、父の読んだ本をつぎつぎと読まされて、私は、しらずしらずのうちに読むことを覚えた。最近になって、私が翻訳や文章を発表するようになり、父を知っていた人たちは、口をそろえて、お父さんが生きておられたら、どんなに喜ばれたろう、という。しかし、父におしえられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える。そして、文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切りひらきたかった私との、どちらもが逃れられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。いま、私は、本を読むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい。

 

須賀敦子 「遠い朝の本たち」所収 父ゆずり」より

 

 

良い文章。