ジョン・ケージ、音楽愛好家たちの野外採集の友、音楽というものへのとらえ方について。
今回は、最近ディビッド・グラブスさんが出した、「レコードは風景をだいなしにする-ジョンケージと録音物たち」のほうで書こうかとも思いましたが、こちらにしました。
ディビッドさんはその昔ジム・オルークと一緒にガスターデルソルというバンドをやっていていまは大学教授(だったかな?)の方です。
- 作者: デイヴィッド・グラブス,David Grubbs,若尾裕,柳沢英輔
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 2015/12/26
- メディア: 単行本
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この本は、Amazonの書籍説明を引用すると、
かつてジョンケージは、「不確定的な演奏は繰り返すことはできない。そんな作品の録音には、風景を絵葉書にする以上の価値はない」として、レコードはその環境や風景を体験することを損なわせるものとして「録音物」を否定し、レコードを一枚も持っていないと公言してはばからなかった。しかし皮肉なことに、音楽家ジョン・ケージの録音作品は膨大な数にのぼり、ケージの名声は録音物のアーカイヴによって高まっていったことはまぎれもない事実である。
本書はこの矛盾から出発し、ケージ、デレク・ベイリー、AMM、ヘンリー・フリントら実験音楽の巨匠たちの作品群や、歴史的復刻となった『Anthology of American Folk Music』などの録音物を考察し、記録と記憶のあいだに耳をすます。「録音することの不可能性」に迫るエキサイティングな脱・現代音楽論。
という本なのですが、まあ、いまの時代はスポティファイとかで、音楽を聴いているので、(自分が。)ほとんどの音楽がネット上にアーカイブ化されていますからね。
スポティファイというのは、ロックも邦楽も洋楽も現代音楽もジャズも全てごちゃ混ぜで、殆どのミュージシャンのアルバムが殆ど全部ある(マイルスデイビスとか、ポールマッカートニーとかフランクザッパまで)のを月額990円くらいで聴けるシステムです。
こういう時代なので、「レコードは風景をだいなしにする」はとても皮肉というか、面白い本でいろいろ考えさせられます。
まあ、でも時代は時代。今更皆がCDを買って聞くってところには、さすがに戻るとは思えないですし、レコード文化やカセットが見直されるのが分かりますが。
変化には逆らえないですね。
そのジョンケージさんという現代音楽の作曲家、の偉大なる本が、「サイレンス」です。
この本は、とっても読みにくくなっています。二つの文章が、適当に交互に書かれている部分や、文章がえらいちっちゃかったり、かと思えば横書きになったりばらばらになったりと、こんなもん読破出来ません。
でも実験的な本で(稲垣足穂の「人間人形時代」も本の真ん中に穴が開いてて面白いです。)
三十二の質問をしたからには、もうあと四十四、質問をしていいだろうか。
できるはずだ。でもしていいんだろうか。
なぜ質問し続けなくちゃいけないんだろう。なぜかって聞く理由があるんだろうか。
もし質問が言葉じゃなくて音だったとしたら、なぜかって聞くだろうか。
言葉が音だとしたら、それは音楽だろうか、それともただのノイズだろうか。
もし音がノイズで言葉じゃないとしたら、それには意味があるんだろうか。
それは音楽だろうか。
二つの音があり、二人の人間がいる。それぞれのうち片方が美しいとしよう。
この四つのもので、何かコミュニケーションができるだろうか。
もし規則というものがあるんなら、誰が作ったんだろう。うかがいたいもんだ。
つまり規則はどこかで始まっているんだろうか。
もしそうなら、どこで終わるんだろう。
もし美の存在しないところに、行かなくてはならないとしたら、私やあなたがたはいったいどうなるんだろうか。
ことわっておくが、いつになっても音は時間の中で生まれている。
いつか美しい音がやんで、聞こえるのはきたない音だけになったとしたら、あなたがたや私の、つまりわれわれの、聴取の経験は、われわれの耳は、聴くことはどうなってしまうんだろうか。
われわれはきたない音が美しいと思えるようになるだろうか。
もし美を捨てたんなら、かわりになにを手に入れたんだろう。
真実を得たんだろうか。
宗教を得たんだろうか。
われわれには神話があるだろうか。
もし神話があるとしたら、それで何をしたらいいだろうか。
われわれはお金をもうける方法を知っているだろうか。
もしお金ができたら、それは音楽につかわれるんだろうか。
(中略)
もしわれわれの頭に何らかの感覚があるとすれば、探し回ることなく、真実を知ることができないものだろうか。
そうでなければ、言うならばコップ1杯の水を飲むことなどどうしてできるだろう。
われわれは他のすべての人間の宗教、神話、哲学、形而上学を知り尽くしているよね。
では、われわれもこういうものを持っているとすれば、それについてどうする必見があるだろうか。
だけどわれわれはこういうものを持ってないよね?
では音楽はどうだろう。
われわれは音楽を持っているだろうか。
音楽も落としてしまったほうがよくはないだろうか。
そしたら何が残るだろうか。ジャズだろうか。
残っているのは何か。
これは目的のない遊びだ、と言いたいんじゃないだろうか。
朝起きて、その日はじめて音を聞くときというのは、そんなふうじゃないだろうか。
ジョンケージ「サイレンス」
あと巻末に載せられている、「音楽愛好家たちの野外採集の友」の項ではケージが大好きな自生するキノコたちについての考察が書かれていて、必見である。
私は森のなかで、自分の沈黙の曲の演奏を指揮して、何時間も楽しい時間を過ごした。
この曲は、出版した譜面に記されている通常の長さよりずっと長い。
つまり、私自身という一人の聴衆のためだけの編曲版ということになる。
ある演奏では、これまでうまく見分けられなかったキノコを確認しようとしながら、第一楽章が過ぎた。
(中略)
私は音と音との関係に関心がないように、音とキノコの関係にも興味を持っているわけではない。
こうした関係というものは、この世界では場違いであるだけでなく、時間のかかる論理を導入せざるをえなくなる。
ところがわれわれは、より真剣さが要求される状況に生きているのだ。
ジョンケージ「サイレンス」
キノコってかわいいですよね。
川上未映子「あこがれ」
川上未映子「あこがれ」
前半の話「ミス・アイスサンドイッチ」
を読みました。
川上未映子さんは初めて読みましたが、ぼくはとてもとても阿部和重さんが好きで、まあその奥様なので、これはきっとなにかあるであろうとふと思い、読んだのでした。
僕の価値観では、女性というものは男性よりもいろいろとだいたいすごいものだ(偉大だ)と思っていますから。
「ミス・アイスサンドイッチ」は素敵な小説です。
まず、とにかく文章の構成が美しいです。話の内容とは別のところで文章が瑞々しいのです。
それも、引用をしてここがね、あそこがね、というのでもなくて、文章のながれ全体が瑞々しいので、抜き出せないのです。
ふつう、書くときって読む相手のことをなんとなく適当に想定して文章って書いていて、例えば、これを川上未映子さんが読むと考えると、文章の書き方への意識がぶれるというか、少し変わります。(だからって文章力はあがりませんが。)この小説の文章は他者への意識が大きいというか、他者を意識した文章であるにもかかわらず、そのぶれが少ないように感じました。
「ミス・アイスサンドイッチ」の文脈というか、センテンスのあいだの「間」が好きです。
ボルヘスみたい。そうでもないか。
文章自体がすっと入ってきて心地よかった。またあらためてこの本を開きたい。と思える文章。
しかし、阿部和重さんの小説も読んで、川上未映子さんの小説も読むと、
阿部和重さんと川上未映子さんとその子供が一緒にご飯食べたりしている、ってののイメージとかがなんかすごいなーとか想像してしまう。
ふつうの人と小説家の違いは、日頃誰もことばにしていないような、ささやかな感じに、ことばを与えられることだよね。いいなー。
「ぼくらはそれでも肉を食う」その①
- 作者: ハロルドハーツォグ,Harold A. Herzog Jr.,山形浩生,守岡桜,森本正史
- 出版社/メーカー: 柏書房
- 発売日: 2011/06
- メディア: 単行本
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文化人類学系の、人と動物の関係に関するレポート。
表紙の絵は畑正憲(ムツゴロウ)さん。
覚書
イルカセラピーというものが、いろいろな病気、神経症や精神病に効果があるといい、海外では法外な金額をとりセラピーを行っているが、科学的には根拠がない。
アメリカのイルカセラピー プログラムでは人工プールで生まれたイルカが利用されるけれど、他の国では大量捕獲によって捉えられた野生のイルカが使われるのが普通だ。
たった1頭のイルカを捕獲するために7頭ものイルカが犠牲になる。生き残った1頭の行き先は、言ってみればイルカ用のグアンタナモ収容所だ。イルカは残りの人生をコンクリートのプールのなかでぐるぐるとまわって過ごす。
複雑な社会生活をいとなみ、洗練されたコミュニケーションシステムを持つ知的な動物をつかまえてきて、自閉症の子どもたちに尽くすセラピストに変身させる権利がわたしたちにあるのだろうか?
覚書
飼い犬やペットと飼い主が似てくることには科学的な根拠がある。
まず、
「人間は、自分と同じぐらいの魅力を持つ恋人に惹かれやすい」
というのを、社会心理学者が発見していて、
それを踏まえて、飼い主の人間の性格やスタイル(風貌)から、ある程度その人間が好意を持ちやすい動物(髪の長い女の子ならビーグル、髪の短い女の子ならハスキー)が特定できることを証明。
そして、収束説というのがあって、
それは、「人間どうしが夫婦の結婚生活が長くなるにつれて顔が似てくるという収束が起こる」ということが明らかにされているらしい。
もう一つ、選択説というのもあってこれは、「そもそもペットを選ぶ際、わたしたちは知らず知らずに自分に似た動物を選ぶというもの。」
なので、成長してどういう姿に変わるかわからない雑種より、純血種を選んでいる飼い主とその純血種のペットは、(顔が?)似てくるということになり、
それを調べてみたと。
調べ方は、ドッグパークをうろついて飼い主と犬の写真を撮ってまわり、飼い主と、飼い犬(純血種)と、関係のない犬の写真を分けて、学生たちに正しい飼い主の犬を当てさせた。
そして、成功率は3分の2となり、(通常なら50パーセントの確率)一部の飼い犬と飼い主が似てくるという考えは科学的にも証明されてるらしい。
こういうことって証明されてるんだ。。。
村上春樹「女のいない男たち」について⑵
昨日、村上春樹「女のいない男たち」についての文章を書き、散々脱線してしまったので2日目です。
昨日の最後で、村上春樹には「女性」が必要だと書きましたが、今回の短編はその女性をあらゆるかたちで失う、或いは失わっている男たち(複数形)の話です。
村上作品の短編は割と、長編への足がかりになることが多いですが、この作品が次の長編のモチーフなのでしょうかね。
この作品以前には村上春樹は、猫や鼠や一角獣(世界の終わり)やリトルピープル、など、いろんなモチーフを通して、自分と世界の繋がりの間に「女性」というものが存在していたので、それをほんとうの意味で、失う、失いかけているというのは、なにか、読んでいてつらい部分ではありました。
いままでもそのモチーフはありましたが最近はその部分が重い。
特に「独立器官」「シェエラザード」「木野」の主人公には、どこか村上春樹の影を感じ、老いていく彼の失いかけているものなのか、猫がどこかに行ってしまうとか、蛇の存在とか、どこかリトルピープル的なものを感じさせる「木野」など、重い作品でした。
最後の「女のいない男たち」でもそうですが、村上春樹の作品は彼が描きたい外側にあるなにかではなく、彼も「込み」のなにかの世界が描かれているので、この作品のモチーフはつまり、村上春樹作品の世界全体の崩壊を示唆してるようにも思えました。
特に最後の「女のいない男たち」では、その小説の書き方はまるで初期の短編のように、かつての彼が軽く描いていた描写が同じように描かれながらも、あまりにも重い描写になっています。
あとは、どの作品にもどこか、わざと過去の作品に似せてある、或いは昔あったモチーフをパラフレーズさせている、というような印象を受けました。
彼はよく、「なにかが失われてしまった」といいますが、小説内でそう言われても、今迄の物語では取り戻せそうな印象もありました。実際ねじまき鳥では取り戻しに行った訳です。
しかし近年の村上作品の「失われた感じ」はほんとうに、じかに、失われてしまったようで、ほんとうにそれが取り戻せなさそうで、そこがつらい感じです。
最後に、この作品を読むきっかけとなったエピソードをひとつ。
レディオヘッドというバンドがあります。村上春樹さんも大好きだという、そしてレディオヘッドのフロントマン、トムヨークも村上作品が好きだと言います。
そのトムヨークは数年前、奥さんと離婚しました。
レディオヘッドというバンドはロックの金字塔的作品を次々と発表し、次回作はどんなにすごいものだろうと(僕を含め)ロック音楽を聴くものは毎回期待していました。
その音楽の作曲や作詞はほぼトムさんが作り続けていましたが、度重なるプレッシャーと重圧でアルバムの制作時、自宅ではものすごい感情があったそうです。
トムさんの奥さんはこの重圧を受けて、その作品制作を側で見続けていました。特に作品に参加している訳ではないのですが、彼らの前作「キングオブリムス」発表後に、トムさんと奥さんは離婚しました。
もしかしたら奥さんはそのトムさんの世界中の期待に応えるエネルギーの爆発に耐え切れなかったのかもしれません。
ただ、奥さんと別れてからの最新作には、所謂レディオヘッドの、苦しみの果てに生み出された狂気のような素晴らしい音楽、というものではなくなってしまっていました。
もちろんそれは僕がただそう思うだけですが、前作までに感じた「あの感じ」がないのです。
ただの普通のなんでもない曲に聞こえたのでした。
トムさんと奥さんは学生時代からの仲でした。
彼女が去って行ってしまったことは、仕方のないこととはいえ、彼にとって、あらゆるものを奪い去ってしまったのかもしれない。
失われて、もう取り戻すこともできないなにかが、あるのかもしれない。
彼らは、それによって、深く傷つき、絶望しているのかもしれない。
なにか、今回村上春樹の小説と繋がっているかのように思えたのです。
村上春樹「女のいない男たち」について⑴
2年前(2014年)に出された村上春樹の短編集、「女のいない男たち」を読了した。
村上作品は、単行本で出されているものは殆ど全て読んでいて、その面白さや、示唆や、無意識というか、潜在意識を軸にした物語のつくりも、思春期冷めやらぬ未だ高校生の頃から読んでいた。
未だ僕が村上春樹を最初に読んでいたころは、世の中はこんなに村上春樹を絶賛していなくて、どちらかというとメジャーなのは村上龍とか、それこそ文壇と呼ばれる場所にいる人たちだと思っていた。
でも僕も「1Q84」以降は、だんだんと村上春樹を離れていったというか、だんだんと「現実的な人間」になってしまっていて、彼の小説にある、「自分と世界を繋ぐ異世界」というか、「違和感」というようなものから離れかけていた。
2年程前、神戸の芦屋と夙川に旅行したことがある。
ここは村上春樹の育った(生まれた?どっちか忘れた)場所で、何度かそのことは彼のエッセイなどに触れられている。その場所に自分が行ったとき、僕はとても奇妙な経験をした。
それは、一言で言うと「違和感」だとも言えるが、何か、そこが「しっくりとくる場所」という感じでもあった。
日本の他の土地にも行ったことはあるが、こんな変てこな雰囲気を感じた場所は他にはない。何が変なのかはわからないけれど。
話が脱線したが、兎も角、僕はまた村上春樹の短編を手に取った。もちろん新作が出るから予約した訳ではなく、図書館の隅に置かれていた本を手に取っただけだが。
以前からこの本の存在は知っていたし、村上春樹はほとんど全部読んでいるのだから、彼のモチーフがなにか(その中心にあるものは今でも「ねじまき鳥クロニクル」だと思う)はなんとなくわかっている。
そしてこの本のタイトルは「女のいない男たち」であり、それってあまりにも露骨なんじゃないの?って気もするタイトルで、今迄の、「神の子どもはみな踊る」とか、「海辺のカフカ」とか「ねじまき鳥~」や「蛍、納屋を焼く」とか、まずタイトルでワクワクする感じがないのと、前作「色彩をもたない多崎つくると〜」の割としっくりこない読後感のことも相まって、流石に今回はスルーするかなとほっておいたのだけれど、突然先月の始めぐらいにこの本を手に取り、多分出た当初にはちらっと読んだ「まえがき」をあらためて読んだ訳なのです。
この「まえがき」が書かれているというのも、村上春樹作品にはあまり例のないことであり、やっぱり村上さん調子よくないのかな、或いはこの短編は力を入れてないのかな、などと本屋で思った記憶があります。
それで2年が経ち、今回この本を手に取ったとき、ぱらぱらっとめくったときに、なんとなくなにが書きたいのかをわかった感じがして、決して村上さんは手を抜いてる訳じゃなかったと思い直し、読もうと思ったと、そして読了しましたと、(ああやっと話の最初のところまできた。)そういう経緯なのです。
村上春樹の作品を読んでいる人は大きく分けて2種類いると思います。
ひとつは、皆が読んでいてベストセラーで、ノーベル文学賞候補だから、みたいな、村上さんに言わせれば「普通のひとたち」そしてもう一つの種類が、村上春樹作品と自分の人生に不思議なリンクや、奇妙な一致を感じるからその本が読みたい、みたいな人たちだと思います。
村上春樹の作品に対する意見も、世の中ではきっぱり二つに分かれ、その批判的なほうは、要するに全ての登場人物が「村上春樹」であり、他者が出てこないというものです。
それは確かにごもっともなことで、じゃあなんで村上さんがなぜ心理学者の河合隼雄さんとの対談を大事にしたのかと言うことなのです。それにそんなことは批判にならないし、読みなくなければ読まなければよいだけなのです。
僕はカフカの作品もとても好きですが、彼の作品も村上作品同様、ほぼ他者がいません。自意識、或いは無意識のなかをぐるぐるまわってる感じなのです。それが心地よい部分でもあるのです。
でもきっとカフカは、きっと完全に他者のいない小説を書きたかったんじゃないでしょうか。
もちろん、村上さんはそうではありません。彼には、「女性」が必要なのです。
というわけで、長くなり過ぎたので続きは明日書きます。
グリムショウの理想の島
「自然界には、色も音も感触も模様も美も香りも―そのようなたぐいのものは何も存在しないといことに、気づいてもらいたい。」
ジョン・エックルス(神経学者)
その昔に読んだ、養老先生の唯脳論という本は、脳と意識について考えるきっかけになりましたが、
その後の色々な書物の中には、事物の最小単位の世界で起こっている出来事が、あまりにも現実的ではない量子力学とか、
あるいは宇宙の果てのマルチバースとか並行世界の概念とか、
わくわくさせる、とても現実とは思えない色々な出来事が描かれている本がありました。
でも、そのとても大きな世界と、一番小さな世界を繋げる真ん中に、自分の脳とその「意識」がある事は、すっかりとは言わないまでも忘れていました。
今回読んだ本は、その事について書かれていた本でした。
[グリムショウの理想の島]
英国デヴォンジャー出身のブレンドン・グリムショウは、南アフリカでジャーナリストをして働き、一九七三年に引退した。
そのときすでに、南国の島を購入して個人所有するという途方もない一歩を踏み出していた。インドとアフリカの間に位置するセイシェル諸島の島の一つ、モワイヨンヌ島を八千ポンド(約百二十万円) で購入したのだ。彼はモワイヨンヌ島を九年間所有したあと、現地のセイシェル人協力者とともに、その無人島で暮らすという一大決心をした。この現代のロビンソンクルーソーは、気の遠くなるような困難と向き合った。
彼が島で取った行動は、浜辺でのんびり過ごすのとは正反対の行動だった。島に到着した当初、島全体が下生えの草にびっしりと覆われていて、ココナッツの実が落ちても地面まで届かないほどだった。
グリムショウはこの草の一層作業に取り掛かり、その作業を進めながら、島の声に耳を傾けた――新たな植林に取り組む際の自分の流儀を彼はそう表現している。どうやらモワイヨンヌ島ではマボガニーの木がよく育つらしいとわかると、数本のマボガニーを輸入するところから始めた。
今では七百本が植林され、高さ二〇メートル前後まで達している。だがそれも、グリムショウが一本一本、手で植えてきた一万六千本の木のうちのほんの一部だ。
また彼は、セイシェル諸島の珍しいカメを保護し、いまではその数は120頭になる。鳥たちも、この自然保護区に集まるようになり、新たに二千羽がやってきた。
二〇〇七年に現地協力者がなくなると、八十六歳のグリムショウは一人で島の世話をするようになった。噂では五千万米ドルもの大金で島を買い取りたいという申し出もあったらしいが、彼はその申し出を断った。島を訪れた人が、マボガニーの木を家具用の材木としてしか見ず、手つかずのビーチを裕福な旅行者がバカンスで訪れるための天国としてしか見ないようなら、その人がセイシェル諸島を何回訪れようと、グリムショウは首を横に振る。モワイヨンヌ島は、彼の死後も保護され続けるだろう。
グリムショウは、つば広の帽子をかぶったショートパンツ姿で歩き回り、日に焼けて風にさらされた顔をしているが、同時に並外れて生き生きとしている。
ディーパック・チョプラ著「スーパーブレイン」より
ここに引用した部分は、この本の根幹にかかわるイメージのある部分ですが、広大なこの本の内容は一言では説明できません。
最後の方で、プラトンのイデア論とか、ペンローズの量子論の話とかとつながるところがあり、脳と意識、ある意味たましいのような概念にまでも触れかかっているところが凄いです。
べつにオカルトの本ではないので。いやオカルトも好きですが。
人間の脳は、テレビやラジオの受像機のようなもので、この世界、この現実をこのようなかたちにつくりあげているもの、物事に良いイメージや悪いイメージ、美味しいもの、おいしくないもの、嫌いな事、楽しいこと、何が美しくその眼にうつり、何がその耳に聞こえているか、そういうすべてをつくりだしているのは、あなたの意識であり、脳はその願いをかなえているだけだと。
ということはじぶんはなにをすべきか?
というおはなしである。
また読み返そう。
おまけ
この本はとても示唆的で、引用できる部分は無数にあるが、とりあえずここを。
人々の間に物理的な距離ができたことで、外部への働きかけは、昔よりも難しくなった。デジタル世代は、そのような物理的距離に、かつてないほどにうまく適応している。彼らの脳を調べると、新たな変化がみられる。ビデオゲームやソーシャルネットワークに長時間集中することで、若者たちは、ビデオゲームに必要となる目と手を連動させた動きや、コンピューターに接する専門技術など、幾つかのスキルを拡大させている。その一方で、面と向き合って人と交流する為に必要となる神経経路は軽視されている。そこから言えるのは、ソーシャルネットワークでつながっていること、つまり、絶えず更新されている写真アルバムにコメントを書き込むことが、「人間関係」で、実際に会って話す必要はないと思われているという事だ。
ディーパック・チョプラ著「スーパーブレイン」より
塩一トンの読書
「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、書物はだまって待っている。現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会にはあきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知っている」と思う本が何冊かあるだろう。ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを読んで、全体を読んだ気になってしまう事もあって、「本」は、ないがしろにされたままだ。相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。
須賀敦子「塩一トンの読書」より表題作11-12ページ
ことばとことばが、より深い味わいを生み出している本の、その頁に印刷されている文字のあいだに深い「溝」のようなものがある。須賀敦子さんの書く文章のことばは、すごくだいじに、選ばれている。
ここに引用した文章は、それこそ抜き出すべきものでもないようにも思われるが、僕は最近、自分たちは、それぞれが読む者と読まれる者のように、橋渡しをしているようなものだと思うようになってきたので、引用をしてみた。
誰かがここを訪れ、須賀敦子という人の本に目を向けるきっかけになったらいいなと思う。