読書兎の書庫

読書、音楽、映画、雑記

「愚痴と感情」

はてなブログをやっていて、その頃は色々と生活のことをつれづれと書いていた。でも今はそれをあまりやろうとは思わない。なぜならSNSやあらゆるネットコミュニケーションはそれで溢れかえってしまっているからだ。

たとえば森の、木々の色や、山の土の上を歩いた時の質感や、その場所に流れている空気や、川の水のせせらぎよその音、足音とか真夜中の静寂とか、そういうものは、なかなかすぐに言葉には変換できないものだ。だって体験は共有が難しいもの。

インターネットには沢山の言葉や写真があふれているが、共有をあやまれば、インスタグラムでさえも、簡単に、美しい写真がただ流れていくモノに過ぎなくなる。

言葉はとても大事なものだが、いくらでも乱用が可能だ。

まともに考えているのかいないのか分からないアメリカの大統領の選出や、ただ感情に流されているとしか思えないネット上の流行りごとをたまに見るけれど、それをちまちまとブログに書きつけても何も起こらないだろうなと思う。疲弊だけだ。大体後で読みなおして嫌な気分になるだけだ。

思えば昔からそうだったのかもしれないが、人は皆が皆、ほんとうは出来れば自分から発信したものを皆に見て貰いたいという願望が強かったのかもしれない。かつてはそれがなかなかできなかったというだけで皆がそういう気持ちだったのだろうか。

数年前、まだはてなブログが羨望のまなざしで皆に使われ、フェイスブックもツィッターもインスタグラムもなかった頃、まだそのブログを書く人たちは、立ち止まって考えているような文章を書いているように感じた。

本を読んでいる時の延長のような文章だ。それは、この文章をまた別の人がどこかで読むかもしれないという可能性を秘めた文章、どんなふうに読まれるかな、相手の立場ならこの文章はどう読まれるかな、てなもんである。

いまは、そういうものってあまり見なくなった。読み直されることなんか考えていないような文章。大事にしていないことば。別にそれならそれでぜんぜん構わないんだけど、怒ってさえもいないんだけど、感心するほどにあふれかえったその文章達が、光の速さでツイッターやインスタグラムやラインやなにがしの荒波を超えていく。

まあでも、それも体験か。

 

まだ読んでいないけれどそのうち、たぶん、読む本たち1

遅読積読で全然ブログが描けないので、これから読む本とか読んでる本を。

 

まず「歌の祭り」ル・クレジオ と、これ。

物質的恍惚 (岩波文庫)

物質的恍惚 (岩波文庫)

 

 

「貨幣の条件」

 

貨幣の条件 ──タカラガイの文明史 (筑摩選書)

貨幣の条件 ──タカラガイの文明史 (筑摩選書)

 

 

これはわりと読み進められた。でももっと貨幣の事に突っ込むのかと思いきやタカラガイの文明史過ぎたw

世界の過去と現在を結ぶ貨幣(タカラガイ)の旅。

 

 

 「ラオスにいったい何があるというんですか?」村上春樹

このなかのアイスランドに行った時のパフィン[鳥]をめぐる話のところは面白かった。

 

 

六つの星星

 

六つの星星―川上未映子対話集 (文春文庫)

六つの星星―川上未映子対話集 (文春文庫)

 

 

巻頭の斎藤環氏の女性への目線は面白い。後半に永井均さんとの対談があるがそこまでは読めなかった。

 

 

今福さんのヘンリーソロー野生の学舎

 

ヘンリー・ソロー 野生の学舎

ヘンリー・ソロー 野生の学舎

 

 今福さんの文章はうっとりさせる。うっとりしすぎて読み進められない。

 

 

音と身体のふしぎな関係

 タイトルと目次だけで気になる。

「音」と身体のふしぎな関係

「音」と身体のふしぎな関係

 

 

 

 

 

「世界の複数性について」と「偶然の統計学」ーーかくもいかようにも世界は捉えられる。

今日は幾つかの齧った本のメモ。

 

世界の複数性について

世界の複数性について

 

 

 

様相実在論を擁護する哲学の本。

簡単に言うと、所謂パラレルワールドや平行世界的なものを真面目に考えみたよ、てな感じである。違うかw 勿論全部読んではいない。でも実際に考えてるのではなく、哲学的な意味で考えてるのだと思う。(実際に考えてるのは量子力学のほう)

本書のどこを読んでも〈あなたは私が支持する立場を受け入れなければならないーなぜなら代わりとなる立場はひとつもないからだ〉という論証は見出せないだろう。私の考えでは、哲学者がこうした論証を提示しようとして上手くいったためしはこれまでほとんどなかったし、そうした論証が必要だと考える哲学者はそもそも思い違いをしている。もちろん私も、自分の立場がそれと匹敵する代案のいくつかよりも優れているというための理由を与える。だがそうした理由が決定的だとは思わない。検討すべき代替案を私が見落としていることもありうるし、私の立場からかなり隔たった代替案にいたってはそもそも論じることすらしなかった。たとえば、可能性に対する量化をまったく認めない強硬路線の現実主義に対しては、反論をひとつも提示していない。私がこの見解を支持しない理由を推察することはたやすいだろうし、この見解に反論するために私が言うべきことのうちには、新しいことは何もなく、決定的なものも何もない。それゆえ、それを論じたところで、何の足しにもならないだろう。

 

このルイスさんの書いた他の本のタイトルも気になる。

「フィクションの真理」「たくさん、だけど、ほとんど一つ」とくに後者。

 

 

 

偶然の統計学

 

 

「偶然」の統計学

「偶然」の統計学

 

 

 

ロトで連続大当たり、2回連続で雷に打たれる。3大会連続でホールインワン。10万年に1度しかないはずの金融危機が起こる。暗殺の夢をみたあとに殺されたリンカーンシンクロニシティ、引き寄せ、銀河や惑星がなぜこういう位置にあるのか、なぜ人類が誕生できたか、同じ家に6個も続けて(3年間ぐらいで)隕石が落ちてきた、とか。

いろいろなありえないことの背後に、この統計学の大家ハンドさんは、「ありえなさの原理」という法則を見いだした。と言われるとなんかワクワクするが、しかしそこは統計学の話。実際は「強硬路線の現実主義者」である。

 

ボレルの法則ー  十分に起こりそうにない出来事は起こりえない。

 

ボレルの法則によれば、(十分に)起こりそうにない出来事はとにかく起こらないと思うべきだ。なのに、そんな出来事が現に起こったところが何度も目撃されてきたーその理由はありえなさの原理が教えてくれる。私たちがそうした物事を目にするのは、何かが必ず起こるはずであること(不可避の法則)、かなり多くの可能性が調べ上げられていること(超大数の法則)、目を向ける先が事後に選ばれていること(選択の法則)、といったありえなさの原理のより糸を私たちが考え合わせていないからである。ありえなさの原理に言わせれば、私たちが到底起こりそうにないと見なす出来事が起こるのは、私たちが理解を誤っているからだ。どこを誤ったかがわかれば、起こりそうにないと見なしていた物事も起こりそうなことになる。

 

でもそんなこと言うなよ感もあって、夢がないよねーって気分になる。むしろここに披露されている不思議な話自体が面白かったし、あと統計学の大家がサイコロの膨大なコレクションを持ってるというところも気になった。統計学はやはり萎えるな。

何処にあったか忘れたけど、NASAが任務を終えた人工衛星が地球に落ちてくると発表して、でもあまりにも加味する変数が多すぎのでどこに落ちるのかはわかりませんが、落ちるのは確かですと言ってたと、この本に書かれてて、ハンドさんは言いたいのはそういう事だと言ってて、よーするに変数が全部わかればいいんだよと。

んなこと言われてもなと思う。

 

それぞれの人のなかで、ほんとうに自分が思っている風に、思いたいと思う風に世界というのは見えているんだなーと思う。

ということは客観的な現実っていうのはほんとに存在してるのかね。

 とかいってると永井さんの本を思い出すな。

存在と時間 ――哲学探究1

存在と時間 ――哲学探究1

 
 

「ぼくらはそれでも肉を食う」 ⑵

「ぼくらはそれでも肉を食う」読了。

 

 

子ネコを見てメロメロになる人が、ミンクの毛皮の肌ざわりを愛せることくらいで驚いてはいけない。

 

 

 

 

「人は言うこととやることがしばしば食い違う。」

 

心理学者たちのあいだでは、以前からよく知られた事実があり、人間の態度には「ABCモデル」というものがあるらしい。 

 

それによると態度には次のような3つの構成要素がある。

 

  • 「情動」  ある問題にどんな感情を抱くか
  • 「行動」  その問題に対する態度が行いにどんな影響を及ぼすか

  • 「認知」  その問題についてなにを知ってるか

 

たまには、三つの要素が一緒に作用することもある。

 

その例としてあげられた話が面白かった。

52歳の哲学者であるブ・バスさんが、2001年にイリノイ大学倫理学者エンゲルさんが書いた論文をたまたま読んだ。

エンゲルさんは、その論文で「動物を食べてはいけない」と論じていて、ロブさんはその論理に心底納得した。そして3週間に渡っていろいろと反証を試みたが白旗をあげたと。

 

ロブは、エンゲルが正しいといったん納得したなら(認知の変化)自分も肉食をやめなければならないと悟った。(行動の変化)数週間後、大学食堂のわきを歩いていると、グリルの上で焼けるハンバーグの匂いがしてきた。

すぐに、理屈抜きで彼はこう感じた。「おぇっ、じつに嫌なにおいだ!」(情動の変化)。エンゲルの論文がきっかけで、ロブは行動、認知、情動という三つの要素がおたがいに強化しあうサイクルに入った。

ロブだけでなく、その妻のゲイル・ディーンも似たような変化をたどり、いまやふたりとも厳格な純粋菜食主義者だ。ふたりはあらゆる動物の搾取に反対し、ロブは自分の授業で動物の権利について教えている。

 

でもロブとゲイルのケースははっきり言って例外。

動物に対する自分の態度が矛盾していようと、まったく平然としている人のほうがほとんどだ。

 

割と例外なこととはいえ、これって人が嫌いなものを食べられないこととかにも応用できる理論なんじゃないのかな?

 

 

人びとが動物の扱いについてどう思っているかを本当に知りたいなら、カネの動きを見ればいい。アメリカ人は動物保護団体に対し、年間20億ドルから30億ドル寄付している。

すさまじい金額だと思うだろう?

でも動物を殺すのにかけている金額と比べたら雀の涙だ。食肉に1670億ドル、ハンティング用品や機材、旅費に250億ドル、害獣駆除に90億ドル、毛皮材料に16億ドル、計2026億ドル也。

 

 

認知心理学者スロヴィックの、「心理的麻痺(サイキックナミング)」と呼ぶ現象も興味深い。

これは悲劇が大きければ大きいほど人びとはその悲劇を気にかけないという理論。

 

病気の子どもひとりを救うために寄付してもいいと人びとが考える金額は、病気の子ども8人のグループを救う為に寄付してもいいと思う金額の2倍だと言われる。もっとたくさんの人が苦しんでるとなると、人間の無関心はさらに拡大する。

 

 もちろん最後はそうではない人も出てきて締めくくられるが、タイトル通り、だいたいの人々はそれでも肉を食うのである。

水槽に魚を入れて愛で、その前で別の魚を食べる。ペットの猫は愛で、牛や豚は食べる。僕だってもちろん肉を食べるけれど、人間って変な生き物だよなあ。

狩猟とかも昔からされてきて、今でも山に増えすぎたシカとかイノシシは狩猟されてる。でも奈良とかでシカに触れたとき、それを殺して食べようとは思えない。

かわいそうだ。としか。

見えないところではうまく屠殺されてて、肉のかたまりになると美味しそうに見える。でもそれを見えるところに持ってくると残酷だと叫ぶ。

謎だ。

 

 

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

 

 

 

ところで、15年前のコンポと、もっと昔のヘッドフォンで音楽を聴いたりするときと、パソコンで音楽を聴いたのでは、やっぱり音の深みが全然違う。

 

音の深みを犠牲にして、iPhoneや簡単な音楽を聴くことの社会やつくられる音楽への弊害ってどんなものだろう。

 

 

 

独りのときの堀込泰行

 

One

One

 

 

今回は本の話ではないですが、元キリンジである、かの麒麟児兄弟の弟、堀込泰行氏のアルバムが発表されました。

キリンジ時代から聴いていて、兄のほうの現在のkirinji(ややこしいな)もとりあえず聴いていますが、やはりあの美しいメロディとハーモニーは、分裂してなくなってしまったかと悲しく思っていましたが、堀込泰行氏の音楽は健在でした。

そしてなぜ堀込泰行氏が兄の元を去ったかが、その理由がこのアルバムの随所に隠されてるように感じるので穿った見方で歌詞を解題してみます。

因みに音楽のほうも、馬の骨(かつて堀込泰行氏がやっていたソロ)とは違う、とてもキリンジ的なあたたかい音楽になっています。

 

 

風にあらがい

冬に蜃気楼を  なぜだい

移りゆく月日の中で

心を閉ざすくらいならいっそ

あぁ  涙を流すがいい

美しいワルツに身をまかせ

踊るなら  

光も射すだろう

雨上がりの日の 虹のように

夜明けや夕べの

夢に魅せられ

やぁbaby

逆さまに映る きのう来た道

風に乗ればいいものを

夏は光と遊べばいいものを

限りある月日の中で

遠くばかり見る人よ  そうさ

                                                                   Waltz

 

 

time after time  飛んでみるのさ

探し物は  そこにある

たとえ虹が 空になくとも

かまうな

窓を叩く嵐も

眠れぬ夜さえ

君の友だ

小さな胸の奥の宝物を

忘れずに

どこまでいけるか

                                                               Shiny

  

 

溺れていたんだ

苛立ちを ジンで煽って

見守ってくれ

やりなおす僕を

友達よ

ぶざまなダンスを笑って

                                                        ブランニューソング

 

君は変わった

今ではもう

話にならない 悲しいね

聞き飽きたんだ

「ボロ儲け」などけっこう

言いたいことは

それだけかい

大人なんだ

お互いさまでいこうぜ

君のせいさ 

なんてほど坊やじゃないんでね

さよなら テディベア

夜更けのお伽話と寂れたダイナー

 小銭にくらんだ目じゃ

夢もゆがむさ

君と笑った

若葉の頃

世界もまだ

青かった

                                               さよならテディベア

 

 

 

さよならテディベアは、ネット上のインタビューで、インタビュアーがポールマッカートニーのRAMに引っ掛けてそういう質問をしていますが、そのような意味ではないと本人が語っています。が、やはりその説明はあまり説得力がないよ、、という気がしましたね。

これはやはりそのまんまの意味なんではないでしょうか(穿った見方なんでね)。

 

全体として、「踊る」、「虹」、ということばや、いまここを大事にする感じ、

つまり、彼は今この場所にいる自分が、だめでも、情けなくてもそれを受け入れて、それを昇華させるような音楽を(ただの毎年増産される大衆音楽ではなくて)つくりたいと、言ってるような気がするんですね。そういうわけで、キリンジで維持していくのはもう無理だったってことではなかろうかなと思いました。

堀込泰行さんという人は正直な人だなと思いました。

王道の、メロディ、素直な歌詞、キリンジの時に、こういうのが聞きたかったんだよな。

 

 

 

ジョン・ケージ、音楽愛好家たちの野外採集の友、音楽というものへのとらえ方について。

 

今回は、最近ディビッド・グラブスさんが出した、「レコードは風景をだいなしにする-ジョンケージと録音物たち」のほうで書こうかとも思いましたが、こちらにしました。

ディビッドさんはその昔ジム・オルークと一緒にガスターデルソルというバンドをやっていていまは大学教授(だったかな?)の方です。

 

レコードは風景をだいなしにする  ジョン・ケージと録音物たち

レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち

 

 

この本は、Amazonの書籍説明を引用すると、

かつてジョンケージは、「不確定的な演奏は繰り返すことはできない。そんな作品の録音には、風景を絵葉書にする以上の価値はない」として、レコードはその環境や風景を体験することを損なわせるものとして「録音物」を否定し、レコードを一枚も持っていないと公言してはばからなかった。しかし皮肉なことに、音楽家ジョン・ケージの録音作品は膨大な数にのぼり、ケージの名声は録音物のアーカイヴによって高まっていったことはまぎれもない事実である。
本書はこの矛盾から出発し、ケージ、デレク・ベイリー、AMM、ヘンリー・フリントら実験音楽の巨匠たちの作品群や、歴史的復刻となった『Anthology of American Folk Music』などの録音物を考察し、記録と記憶のあいだに耳をすます。「録音することの不可能性」に迫るエキサイティングな脱・現代音楽論。

という本なのですが、まあ、いまの時代はスポティファイとかで、音楽を聴いているので、(自分が。)ほとんどの音楽がネット上にアーカイブ化されていますからね。

スポティファイというのは、ロックも邦楽も洋楽も現代音楽もジャズも全てごちゃ混ぜで、殆どのミュージシャンのアルバムが殆ど全部ある(マイルスデイビスとか、ポールマッカートニーとかフランクザッパまで)のを月額990円くらいで聴けるシステムです。

こういう時代なので、「レコードは風景をだいなしにする」はとても皮肉というか、面白い本でいろいろ考えさせられます。

まあ、でも時代は時代。今更皆がCDを買って聞くってところには、さすがに戻るとは思えないですし、レコード文化やカセットが見直されるのが分かりますが。

変化には逆らえないですね。

 

 

そのジョンケージさんという現代音楽の作曲家、の偉大なる本が、「サイレンス」です。

この本は、とっても読みにくくなっています。二つの文章が、適当に交互に書かれている部分や、文章がえらいちっちゃかったり、かと思えば横書きになったりばらばらになったりと、こんなもん読破出来ません。

でも実験的な本で(稲垣足穂の「人間人形時代」も本の真ん中に穴が開いてて面白いです。)

 

三十二の質問をしたからには、もうあと四十四、質問をしていいだろうか。

できるはずだ。でもしていいんだろうか。

なぜ質問し続けなくちゃいけないんだろう。なぜかって聞く理由があるんだろうか。

もし質問が言葉じゃなくて音だったとしたら、なぜかって聞くだろうか。

言葉が音だとしたら、それは音楽だろうか、それともただのノイズだろうか。

もし音がノイズで言葉じゃないとしたら、それには意味があるんだろうか。

それは音楽だろうか。

二つの音があり、二人の人間がいる。それぞれのうち片方が美しいとしよう。

この四つのもので、何かコミュニケーションができるだろうか。

もし規則というものがあるんなら、誰が作ったんだろう。うかがいたいもんだ。

つまり規則はどこかで始まっているんだろうか。

もしそうなら、どこで終わるんだろう。

もし美の存在しないところに、行かなくてはならないとしたら、私やあなたがたはいったいどうなるんだろうか。

ことわっておくが、いつになっても音は時間の中で生まれている。

いつか美しい音がやんで、聞こえるのはきたない音だけになったとしたら、あなたがたや私の、つまりわれわれの、聴取の経験は、われわれの耳は、聴くことはどうなってしまうんだろうか。

われわれはきたない音が美しいと思えるようになるだろうか。

もし美を捨てたんなら、かわりになにを手に入れたんだろう。

真実を得たんだろうか。

宗教を得たんだろうか。

われわれには神話があるだろうか。

もし神話があるとしたら、それで何をしたらいいだろうか。

われわれはお金をもうける方法を知っているだろうか。

もしお金ができたら、それは音楽につかわれるんだろうか。

(中略)

もしわれわれの頭に何らかの感覚があるとすれば、探し回ることなく、真実を知ることができないものだろうか。

そうでなければ、言うならばコップ1杯の水を飲むことなどどうしてできるだろう。

われわれは他のすべての人間の宗教、神話、哲学、形而上学を知り尽くしているよね。

では、われわれもこういうものを持っているとすれば、それについてどうする必見があるだろうか。

だけどわれわれはこういうものを持ってないよね?

では音楽はどうだろう。

われわれは音楽を持っているだろうか。

音楽も落としてしまったほうがよくはないだろうか。

そしたら何が残るだろうか。ジャズだろうか。

残っているのは何か。

これは目的のない遊びだ、と言いたいんじゃないだろうか。

朝起きて、その日はじめて音を聞くときというのは、そんなふうじゃないだろうか。

                 ジョンケージ「サイレンス」

 

 

あと巻末に載せられている、「音楽愛好家たちの野外採集の友」の項ではケージが大好きな自生するキノコたちについての考察が書かれていて、必見である。

 

 

私は森のなかで、自分の沈黙の曲の演奏を指揮して、何時間も楽しい時間を過ごした。

この曲は、出版した譜面に記されている通常の長さよりずっと長い。

つまり、私自身という一人の聴衆のためだけの編曲版ということになる。

ある演奏では、これまでうまく見分けられなかったキノコを確認しようとしながら、第一楽章が過ぎた。

(中略)

私は音と音との関係に関心がないように、音とキノコの関係にも興味を持っているわけではない。

こうした関係というものは、この世界では場違いであるだけでなく、時間のかかる論理を導入せざるをえなくなる。

ところがわれわれは、より真剣さが要求される状況に生きているのだ。

                  ジョンケージ「サイレンス」

 

 キノコってかわいいですよね。

 

サイレンス

サイレンス

 

 

川上未映子「あこがれ」

 

あこがれ

あこがれ

 

 

川上未映子「あこがれ」

前半の話「ミス・アイスサンドイッチ」

を読みました。

川上未映子さんは初めて読みましたが、ぼくはとてもとても阿部和重さんが好きで、まあその奥様なので、これはきっとなにかあるであろうとふと思い、読んだのでした。

僕の価値観では、女性というものは男性よりもいろいろとだいたいすごいものだ(偉大だ)と思っていますから。

 

「ミス・アイスサンドイッチ」は素敵な小説です。

 

まず、とにかく文章の構成が美しいです。話の内容とは別のところで文章が瑞々しいのです。

それも、引用をしてここがね、あそこがね、というのでもなくて、文章のながれ全体が瑞々しいので、抜き出せないのです。

ふつう、書くときって読む相手のことをなんとなく適当に想定して文章って書いていて、例えば、これを川上未映子さんが読むと考えると、文章の書き方への意識がぶれるというか、少し変わります。(だからって文章力はあがりませんが。)この小説の文章は他者への意識が大きいというか、他者を意識した文章であるにもかかわらず、そのぶれが少ないように感じました。

 

「ミス・アイスサンドイッチ」の文脈というか、センテンスのあいだの「間」が好きです。

ボルヘスみたい。そうでもないか。

文章自体がすっと入ってきて心地よかった。またあらためてこの本を開きたい。と思える文章。

しかし、阿部和重さんの小説も読んで、川上未映子さんの小説も読むと、

阿部和重さんと川上未映子さんとその子供が一緒にご飯食べたりしている、ってののイメージとかがなんかすごいなーとか想像してしまう。

ふつうの人と小説家の違いは、日頃誰もことばにしていないような、ささやかな感じに、ことばを与えられることだよね。いいなー。