読書兎の書庫

読書、音楽、映画、雑記

京都と高知と上林暁

あけましておめでとうごさいます。(遅い)

  一月半ばに京都に行く機会があり、ついでにあの伝説の同人本(みたいな話を聞いたことがある)、「sumus」に関わられた山本善行さんの古書店、善行堂に行った。

善行堂にて、2冊の本を買った。土曜社という出版社が出してるアンドレ・モロワの「私の生活技術」と、マグダ・アレクサンダーさんの書いた「塔の思想」。どちらもあとで読んで当たりだった。

買ったときに、少し善行さんと立ち話をしたら、善行さんは高知の(私は高知在住)上林暁という作家がすごく好きで、その作家の本の選者もされてるとのことで、紹介してもらったので「星を撒いた街」という本を買ってきた。上林暁という作家、高知に住んでるのに全く知らなかった。

知り合いの煙草屋の親父が古本好きで、聞いてみたらよく知っていて、記念館にも行ったことがあるとのこと。

「星を撒いた街」、まず装丁がすごく素晴らしくて、本を買った嬉しさを感じる。まだ中は最初の、「花の精」しか読んでないけれど、こころにのこる。

高知新聞社にケイプラスという、月一回ぐらい出ている薄いフリーペーパーがあり、そこに島田潤一郎という方が「読む時間、向き合う時間」という連載を書いている。自分はこの連載を読んではいなかったが、妻に言われて見てみると、その島田さんが、この「星を撒いた街」の発行に関わっている夏葉社の方であった。不思議。

「この世界の片隅に」が何故こんなにも素晴らしいのか。

たまたま連れられて映画を観てきた。

アニメ映画である。「この世界の片隅に」というタイトルである。戦時中の内容だということと、漫画が原作にあるということしか知識はなかった。

観て、これは、なんということか、と思った。原作の内容も素晴らしい。映画の展開も素晴らしい。語り尽くせぬテーマでもある。

しかし、これは得体の知れない、それとは違うなにか?なんじゃないの?俺が感じているのは。。。

人は、何かが面白いやら面白くないやら、ことばで、あらわす。

人に話しかけたりして、あれがすごかったよとか、これはやばかったよなどと言う。何がやばかったのか確認するために何度も映画を観たり、原作を読んだり、監督の他の映画を観たり、資料を探して納得しようとする。

あーこれはあれだ、こーゆーことだと言いたい訳である。

しかし本来、モノを創ることを志す者はことばでは言い尽くせない感じをそこに込めたいがあまりモノを創るのである。イメージである。風景である。五感である。

あーあれはなんだ、簡単に言うとこーゆーことだ、と要約されて、圧縮されて、作品が人のあたまでまとめられてそれもイメージになる。キャラクターに落とし込まれる。監督に落とし込まれる。或いはジャンル分けされる。

しかし、本来人の作ったものはどんなものでも、その人にしか作り得ない、個性的なものだ。まとめられて、箱に入れられて、ことばに置き換えられて、でも、そうされる前にそれは、全く違うものだった。

経験したとき、驚く。びっくりして、何だったのか考える。作品をそのままを受け入れることが出来ればいいけど、なかなかそうもいかない。

たぶんこの作品が素晴らしいと思うのは、なにもそんなことは劇中では言わずに、そんなことを考えさせる、ことだ。

映画のそこかしこに、映画の、つぶ、を観ていた。かがやいていて、きらきらしている。キャラクターも、風景も、声も、喜びも悲しみも、ぜんぶ一緒になって。。そんな映画。生きている感じ。生きているものを尊んでいる、本当に普通のものを大事にしている、そんな映画でした。

 

須賀敦子「遠い朝の本たち」

 

父が一九七〇年に六十四歳で死んだとき、私は岩波の日本古典文学大系の揃いを、ごっそりもらった。父は会社をやめたら、一冊ずつ、読んでいくつもりだったのだろう。ほとんど、ページを繰った痕跡のないなかで、平家物語だけは、しっかりと読んだあとがあった。平家物語で私はもういちど父につながったような気がした。

幼いころは、父が本を買ってくれて、それを読み、成長してからは、父の読んだ本をつぎつぎと読まされて、私は、しらずしらずのうちに読むことを覚えた。最近になって、私が翻訳や文章を発表するようになり、父を知っていた人たちは、口をそろえて、お父さんが生きておられたら、どんなに喜ばれたろう、という。しかし、父におしえられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える。そして、文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切りひらきたかった私との、どちらもが逃れられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。いま、私は、本を読むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい。

 

須賀敦子 「遠い朝の本たち」所収 父ゆずり」より

 

 

良い文章。

 

「愚痴と感情」

はてなブログをやっていて、その頃は色々と生活のことをつれづれと書いていた。でも今はそれをあまりやろうとは思わない。なぜならSNSやあらゆるネットコミュニケーションはそれで溢れかえってしまっているからだ。

たとえば森の、木々の色や、山の土の上を歩いた時の質感や、その場所に流れている空気や、川の水のせせらぎよその音、足音とか真夜中の静寂とか、そういうものは、なかなかすぐに言葉には変換できないものだ。だって体験は共有が難しいもの。

インターネットには沢山の言葉や写真があふれているが、共有をあやまれば、インスタグラムでさえも、簡単に、美しい写真がただ流れていくモノに過ぎなくなる。

言葉はとても大事なものだが、いくらでも乱用が可能だ。

まともに考えているのかいないのか分からないアメリカの大統領の選出や、ただ感情に流されているとしか思えないネット上の流行りごとをたまに見るけれど、それをちまちまとブログに書きつけても何も起こらないだろうなと思う。疲弊だけだ。大体後で読みなおして嫌な気分になるだけだ。

思えば昔からそうだったのかもしれないが、人は皆が皆、ほんとうは出来れば自分から発信したものを皆に見て貰いたいという願望が強かったのかもしれない。かつてはそれがなかなかできなかったというだけで皆がそういう気持ちだったのだろうか。

数年前、まだはてなブログが羨望のまなざしで皆に使われ、フェイスブックもツィッターもインスタグラムもなかった頃、まだそのブログを書く人たちは、立ち止まって考えているような文章を書いているように感じた。

本を読んでいる時の延長のような文章だ。それは、この文章をまた別の人がどこかで読むかもしれないという可能性を秘めた文章、どんなふうに読まれるかな、相手の立場ならこの文章はどう読まれるかな、てなもんである。

いまは、そういうものってあまり見なくなった。読み直されることなんか考えていないような文章。大事にしていないことば。別にそれならそれでぜんぜん構わないんだけど、怒ってさえもいないんだけど、感心するほどにあふれかえったその文章達が、光の速さでツイッターやインスタグラムやラインやなにがしの荒波を超えていく。

まあでも、それも体験か。

 

まだ読んでいないけれどそのうち、たぶん、読む本たち1

遅読積読で全然ブログが描けないので、これから読む本とか読んでる本を。

 

まず「歌の祭り」ル・クレジオ と、これ。

物質的恍惚 (岩波文庫)

物質的恍惚 (岩波文庫)

 

 

「貨幣の条件」

 

貨幣の条件 ──タカラガイの文明史 (筑摩選書)

貨幣の条件 ──タカラガイの文明史 (筑摩選書)

 

 

これはわりと読み進められた。でももっと貨幣の事に突っ込むのかと思いきやタカラガイの文明史過ぎたw

世界の過去と現在を結ぶ貨幣(タカラガイ)の旅。

 

 

 「ラオスにいったい何があるというんですか?」村上春樹

このなかのアイスランドに行った時のパフィン[鳥]をめぐる話のところは面白かった。

 

 

六つの星星

 

六つの星星―川上未映子対話集 (文春文庫)

六つの星星―川上未映子対話集 (文春文庫)

 

 

巻頭の斎藤環氏の女性への目線は面白い。後半に永井均さんとの対談があるがそこまでは読めなかった。

 

 

今福さんのヘンリーソロー野生の学舎

 

ヘンリー・ソロー 野生の学舎

ヘンリー・ソロー 野生の学舎

 

 今福さんの文章はうっとりさせる。うっとりしすぎて読み進められない。

 

 

音と身体のふしぎな関係

 タイトルと目次だけで気になる。

「音」と身体のふしぎな関係

「音」と身体のふしぎな関係

 

 

 

 

 

「世界の複数性について」と「偶然の統計学」ーーかくもいかようにも世界は捉えられる。

今日は幾つかの齧った本のメモ。

 

世界の複数性について

世界の複数性について

 

 

 

様相実在論を擁護する哲学の本。

簡単に言うと、所謂パラレルワールドや平行世界的なものを真面目に考えみたよ、てな感じである。違うかw 勿論全部読んではいない。でも実際に考えてるのではなく、哲学的な意味で考えてるのだと思う。(実際に考えてるのは量子力学のほう)

本書のどこを読んでも〈あなたは私が支持する立場を受け入れなければならないーなぜなら代わりとなる立場はひとつもないからだ〉という論証は見出せないだろう。私の考えでは、哲学者がこうした論証を提示しようとして上手くいったためしはこれまでほとんどなかったし、そうした論証が必要だと考える哲学者はそもそも思い違いをしている。もちろん私も、自分の立場がそれと匹敵する代案のいくつかよりも優れているというための理由を与える。だがそうした理由が決定的だとは思わない。検討すべき代替案を私が見落としていることもありうるし、私の立場からかなり隔たった代替案にいたってはそもそも論じることすらしなかった。たとえば、可能性に対する量化をまったく認めない強硬路線の現実主義に対しては、反論をひとつも提示していない。私がこの見解を支持しない理由を推察することはたやすいだろうし、この見解に反論するために私が言うべきことのうちには、新しいことは何もなく、決定的なものも何もない。それゆえ、それを論じたところで、何の足しにもならないだろう。

 

このルイスさんの書いた他の本のタイトルも気になる。

「フィクションの真理」「たくさん、だけど、ほとんど一つ」とくに後者。

 

 

 

偶然の統計学

 

 

「偶然」の統計学

「偶然」の統計学

 

 

 

ロトで連続大当たり、2回連続で雷に打たれる。3大会連続でホールインワン。10万年に1度しかないはずの金融危機が起こる。暗殺の夢をみたあとに殺されたリンカーンシンクロニシティ、引き寄せ、銀河や惑星がなぜこういう位置にあるのか、なぜ人類が誕生できたか、同じ家に6個も続けて(3年間ぐらいで)隕石が落ちてきた、とか。

いろいろなありえないことの背後に、この統計学の大家ハンドさんは、「ありえなさの原理」という法則を見いだした。と言われるとなんかワクワクするが、しかしそこは統計学の話。実際は「強硬路線の現実主義者」である。

 

ボレルの法則ー  十分に起こりそうにない出来事は起こりえない。

 

ボレルの法則によれば、(十分に)起こりそうにない出来事はとにかく起こらないと思うべきだ。なのに、そんな出来事が現に起こったところが何度も目撃されてきたーその理由はありえなさの原理が教えてくれる。私たちがそうした物事を目にするのは、何かが必ず起こるはずであること(不可避の法則)、かなり多くの可能性が調べ上げられていること(超大数の法則)、目を向ける先が事後に選ばれていること(選択の法則)、といったありえなさの原理のより糸を私たちが考え合わせていないからである。ありえなさの原理に言わせれば、私たちが到底起こりそうにないと見なす出来事が起こるのは、私たちが理解を誤っているからだ。どこを誤ったかがわかれば、起こりそうにないと見なしていた物事も起こりそうなことになる。

 

でもそんなこと言うなよ感もあって、夢がないよねーって気分になる。むしろここに披露されている不思議な話自体が面白かったし、あと統計学の大家がサイコロの膨大なコレクションを持ってるというところも気になった。統計学はやはり萎えるな。

何処にあったか忘れたけど、NASAが任務を終えた人工衛星が地球に落ちてくると発表して、でもあまりにも加味する変数が多すぎのでどこに落ちるのかはわかりませんが、落ちるのは確かですと言ってたと、この本に書かれてて、ハンドさんは言いたいのはそういう事だと言ってて、よーするに変数が全部わかればいいんだよと。

んなこと言われてもなと思う。

 

それぞれの人のなかで、ほんとうに自分が思っている風に、思いたいと思う風に世界というのは見えているんだなーと思う。

ということは客観的な現実っていうのはほんとに存在してるのかね。

 とかいってると永井さんの本を思い出すな。

存在と時間 ――哲学探究1

存在と時間 ――哲学探究1

 
 

「ぼくらはそれでも肉を食う」 ⑵

「ぼくらはそれでも肉を食う」読了。

 

 

子ネコを見てメロメロになる人が、ミンクの毛皮の肌ざわりを愛せることくらいで驚いてはいけない。

 

 

 

 

「人は言うこととやることがしばしば食い違う。」

 

心理学者たちのあいだでは、以前からよく知られた事実があり、人間の態度には「ABCモデル」というものがあるらしい。 

 

それによると態度には次のような3つの構成要素がある。

 

  • 「情動」  ある問題にどんな感情を抱くか
  • 「行動」  その問題に対する態度が行いにどんな影響を及ぼすか

  • 「認知」  その問題についてなにを知ってるか

 

たまには、三つの要素が一緒に作用することもある。

 

その例としてあげられた話が面白かった。

52歳の哲学者であるブ・バスさんが、2001年にイリノイ大学倫理学者エンゲルさんが書いた論文をたまたま読んだ。

エンゲルさんは、その論文で「動物を食べてはいけない」と論じていて、ロブさんはその論理に心底納得した。そして3週間に渡っていろいろと反証を試みたが白旗をあげたと。

 

ロブは、エンゲルが正しいといったん納得したなら(認知の変化)自分も肉食をやめなければならないと悟った。(行動の変化)数週間後、大学食堂のわきを歩いていると、グリルの上で焼けるハンバーグの匂いがしてきた。

すぐに、理屈抜きで彼はこう感じた。「おぇっ、じつに嫌なにおいだ!」(情動の変化)。エンゲルの論文がきっかけで、ロブは行動、認知、情動という三つの要素がおたがいに強化しあうサイクルに入った。

ロブだけでなく、その妻のゲイル・ディーンも似たような変化をたどり、いまやふたりとも厳格な純粋菜食主義者だ。ふたりはあらゆる動物の搾取に反対し、ロブは自分の授業で動物の権利について教えている。

 

でもロブとゲイルのケースははっきり言って例外。

動物に対する自分の態度が矛盾していようと、まったく平然としている人のほうがほとんどだ。

 

割と例外なこととはいえ、これって人が嫌いなものを食べられないこととかにも応用できる理論なんじゃないのかな?

 

 

人びとが動物の扱いについてどう思っているかを本当に知りたいなら、カネの動きを見ればいい。アメリカ人は動物保護団体に対し、年間20億ドルから30億ドル寄付している。

すさまじい金額だと思うだろう?

でも動物を殺すのにかけている金額と比べたら雀の涙だ。食肉に1670億ドル、ハンティング用品や機材、旅費に250億ドル、害獣駆除に90億ドル、毛皮材料に16億ドル、計2026億ドル也。

 

 

認知心理学者スロヴィックの、「心理的麻痺(サイキックナミング)」と呼ぶ現象も興味深い。

これは悲劇が大きければ大きいほど人びとはその悲劇を気にかけないという理論。

 

病気の子どもひとりを救うために寄付してもいいと人びとが考える金額は、病気の子ども8人のグループを救う為に寄付してもいいと思う金額の2倍だと言われる。もっとたくさんの人が苦しんでるとなると、人間の無関心はさらに拡大する。

 

 もちろん最後はそうではない人も出てきて締めくくられるが、タイトル通り、だいたいの人々はそれでも肉を食うのである。

水槽に魚を入れて愛で、その前で別の魚を食べる。ペットの猫は愛で、牛や豚は食べる。僕だってもちろん肉を食べるけれど、人間って変な生き物だよなあ。

狩猟とかも昔からされてきて、今でも山に増えすぎたシカとかイノシシは狩猟されてる。でも奈良とかでシカに触れたとき、それを殺して食べようとは思えない。

かわいそうだ。としか。

見えないところではうまく屠殺されてて、肉のかたまりになると美味しそうに見える。でもそれを見えるところに持ってくると残酷だと叫ぶ。

謎だ。

 

 

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

 

 

 

ところで、15年前のコンポと、もっと昔のヘッドフォンで音楽を聴いたりするときと、パソコンで音楽を聴いたのでは、やっぱり音の深みが全然違う。

 

音の深みを犠牲にして、iPhoneや簡単な音楽を聴くことの社会やつくられる音楽への弊害ってどんなものだろう。