読書兎の書庫

読書、音楽、映画、雑記

羊をめぐる冒険Ⅱ

読了。最近この物語で起こっているような出来事がよく起こる。なんだろう。と言っても羊男に出会ったとかいう訳ではないけれど。最初の頃の村上春樹はまだ物語のつくりが荒い感じもするけれど、この時点で既に今ある物語の部品はすべてあることに驚く。運転手も、秘書も、猫も、いなくなるガールフレンドも。

羊をめぐる冒険

あと3分の1で読了。村上春樹はうちに全部あると思ってたのにこれだけ単行本でも文庫でもなかった。すごく若い時に読んだ記憶があるが、すっかり忘れてる。いまの構造の元になっている最初の小説。いわしという猫、いるかホテル、羊博士、羊男、耳の完璧な女の子、失われていくもの、巨大な闇か、べつのなにか、ずっと前からこの構造はあるんだね。

過去は古く未来は新しい、のか?

 

過去は古く未来は新しいというイメージは昔からある。例えば機器は発達する。進化論という考えかたをダーウィンが唱えたり、ビッグバンの概念とかから現在のそのイメージがある気がする。でも聖書とかの時代にはそうではなかった気がする。新しくなればなるほど駄目になるみたいなニュアンスがあの頃にはあったような気が。でも確かに機器は発達する。iphoneやらなんやらは。でも人間自体は全然発展してない気がする。社会は回っているようでいてそんなこともない気もする。環境は破壊されまくってる気がする。人々はもう身近な環境にも配慮しなくなった気もする。やっぱり昔のほうが良かったんだろうか。他の動物が順応することはあったかもしれないが、進化したみたいなのは、よくわからない。新しい何かになったってのは、あんまりよく知らない。火星にローバーはある。それを動かすシステムはある。もうレコードよりストリーミング の時代だ。でもそれって音楽が進化してるってことでもない。ただ要領良くなったってことでないの?めんどくさいことがなくなった。川で洗濯をし、山に芝刈りに行く必要はない。それを良しとしたのは功利主義みたいなものだし。それでいい結果がでてるかは、まあ見ればわかるけど、出てない。けど始めたことはやめられないから続ける。ただそれだけのことかな。

過去を掘り返して見ればそこに新しい発見があるかもしれない。けれどそこからやり直すことは出来ない。考えかたは変えられるけど、最近は柔軟じゃないね。本読まなくちゃ。

伝承と文学

昔のボブディランを聴くと(それはかつて僕が若かったときの話だけれど)、まるでヒップホップのようだった。こう思った。こんなのは歌詞が分からないとわからない音楽じゃないか。もちろん洋楽をいろいろ聞いてたから成り行きぐらいは知ってる。ユダって呼ばれたりとか、宗教やってみたりとか。そんなこんなで2010年代の終わりには、すっかりオールディーズを歌っている。

でもいまのボブディランって、古い音楽を歌っている。素敵だなあと思う。若いころのボブディランも、もちろんいま聴くとそれなりにいいなと思うけど、いや、いまのほうがいいな。

 

そして、僕は最近ウディガスリーはわかるようになった。

ウディガスリーにたどり着くまで、どれだけの曲を聴くことを必要としただろう。その前を何度通り過ぎたことだろう。

音楽も小説も結局は伝承とリズムだった。経験がなければわかることもない。

完璧なものそれは作り続けている瞬間だけだ。

と考えた。どんな素晴らしいものも作品も風化するし、他者のそれを考えると差異が生まれるし、その瞬間に没頭してなにかをしている状態だけは、完璧かもしれない。でも俯瞰はできないな。批評も、評価も出来ない。だからいいか悪いかはわからない。でも続けているその瞬間だけは完璧だと言えると思う。過去のなにかを完璧だと言ったりすることは危険だ。だってそんなこと明日には変わる。人は変わり続けるから、ずっとそれに打ち込むしかない。毎日こつこつとそれをやり続けるしかない。そんな風にふと思った。

昨日の今日で暑さは凪(でもない)

 

技術は進歩するって言うけど、それでホントに人間は進歩してるかは謎って話で。技術はえらい進歩した。例えばSNSでもパソコン通信から始まって、(正確な名前忘れたけど)mixiとかブログが最初あった。そのあとがツイッターとかフェイスブックだったっけ?そんでいまはインスタとかいろいろ。

その昔ブログをやってたころは、長い文章を書くのにとても悩んでた。どんなこと書こうかなとネタ探しをしたりした。でもいろいろな新しいSNSが出てきて、そちらへ移行していった。

フェイスブックはやらなかったけど、mixiはなんか距離感が近すぎるし、ツイッターはただ呟いてる人たちの集まりって感じで、そこがいいっちゃあいいんだろうけど、だからまだ続いてるんだろうけど、ブログとは違うよね。

それでそうインスタは、もういいか。目新しいシステムほど、簡単で視覚的で面倒いことがないから流行るし、広がる。でも生きてる人間は昔ながらに面倒くさいから、システムが新しくなっても、やってることは一緒だよね。

簡単になってる分、人々の表現の幅と、それを見るものの判断の幅が狭くなって、つまり自分のほうは受け身のままで良くなってる感が強まるから、炎上とかも増えるし、文句多くなる。

小説家の森さんが昔ブログやってたころは、インターネットも面白かったのになあ、の、「面白い」とは、たぶん余地とか余白のようなもの、のりしろがたくさんあったということ。

だからまたここで文章書いたら、楽しくなるかな、って、それはわからないな。

 

最近なんかの記事読んだとき、この文章は何分で読めます。って書いてあるけど、あれなんか典型的な余白のなさだよなあ。

弱さと罠

アプリゲームなどをやめて、iphoneのいつも手がそこに行こうとするようなアプリを棄てると、青空文庫のような有志が集まって構築した文章などにアクセスできる。できなかったのは自分の意思の弱さで、もともと意思の強い人間はゲームなんかせずともなんでもしたいようにやるのかもしれない。しかし私は意思が弱いのでまあ全然、見事に術中にはまる。いまはカフカの城を青空文庫で読んでいる。文庫版も持っているので、iphoneで読み進めた分は、本のそのページまで付箋をのばす。翻訳は違うけれど、長いし完結してないイメージの城を読むためにはこのくらいしないといけないかもしれない。弱さを補わないと、この繋がりの強い世界には罠が多すぎる。