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塩一トンの読書

 

「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、書物はだまって待っている。現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会にはあきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知っている」と思う本が何冊かあるだろう。ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを読んで、全体を読んだ気になってしまう事もあって、「本」は、ないがしろにされたままだ。相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。

 

         須賀敦子「塩一トンの読書」より表題作11-12ページ

 

 ことばとことばが、より深い味わいを生み出している本の、その頁に印刷されている文字のあいだに深い「溝」のようなものがある。須賀敦子さんの書く文章のことばは、すごくだいじに、選ばれている。

ここに引用した文章は、それこそ抜き出すべきものでもないようにも思われるが、僕は最近、自分たちは、それぞれが読む者と読まれる者のように、橋渡しをしているようなものだと思うようになってきたので、引用をしてみた。

誰かがここを訪れ、須賀敦子という人の本に目を向けるきっかけになったらいいなと思う。