村上春樹「女のいない男たち」について⑵
昨日、村上春樹「女のいない男たち」についての文章を書き、散々脱線してしまったので2日目です。
昨日の最後で、村上春樹には「女性」が必要だと書きましたが、今回の短編はその女性をあらゆるかたちで失う、或いは失わっている男たち(複数形)の話です。
村上作品の短編は割と、長編への足がかりになることが多いですが、この作品が次の長編のモチーフなのでしょうかね。
この作品以前には村上春樹は、猫や鼠や一角獣(世界の終わり)やリトルピープル、など、いろんなモチーフを通して、自分と世界の繋がりの間に「女性」というものが存在していたので、それをほんとうの意味で、失う、失いかけているというのは、なにか、読んでいてつらい部分ではありました。
いままでもそのモチーフはありましたが最近はその部分が重い。
特に「独立器官」「シェエラザード」「木野」の主人公には、どこか村上春樹の影を感じ、老いていく彼の失いかけているものなのか、猫がどこかに行ってしまうとか、蛇の存在とか、どこかリトルピープル的なものを感じさせる「木野」など、重い作品でした。
最後の「女のいない男たち」でもそうですが、村上春樹の作品は彼が描きたい外側にあるなにかではなく、彼も「込み」のなにかの世界が描かれているので、この作品のモチーフはつまり、村上春樹作品の世界全体の崩壊を示唆してるようにも思えました。
特に最後の「女のいない男たち」では、その小説の書き方はまるで初期の短編のように、かつての彼が軽く描いていた描写が同じように描かれながらも、あまりにも重い描写になっています。
あとは、どの作品にもどこか、わざと過去の作品に似せてある、或いは昔あったモチーフをパラフレーズさせている、というような印象を受けました。
彼はよく、「なにかが失われてしまった」といいますが、小説内でそう言われても、今迄の物語では取り戻せそうな印象もありました。実際ねじまき鳥では取り戻しに行った訳です。
しかし近年の村上作品の「失われた感じ」はほんとうに、じかに、失われてしまったようで、ほんとうにそれが取り戻せなさそうで、そこがつらい感じです。
最後に、この作品を読むきっかけとなったエピソードをひとつ。
レディオヘッドというバンドがあります。村上春樹さんも大好きだという、そしてレディオヘッドのフロントマン、トムヨークも村上作品が好きだと言います。
そのトムヨークは数年前、奥さんと離婚しました。
レディオヘッドというバンドはロックの金字塔的作品を次々と発表し、次回作はどんなにすごいものだろうと(僕を含め)ロック音楽を聴くものは毎回期待していました。
その音楽の作曲や作詞はほぼトムさんが作り続けていましたが、度重なるプレッシャーと重圧でアルバムの制作時、自宅ではものすごい感情があったそうです。
トムさんの奥さんはこの重圧を受けて、その作品制作を側で見続けていました。特に作品に参加している訳ではないのですが、彼らの前作「キングオブリムス」発表後に、トムさんと奥さんは離婚しました。
もしかしたら奥さんはそのトムさんの世界中の期待に応えるエネルギーの爆発に耐え切れなかったのかもしれません。
ただ、奥さんと別れてからの最新作には、所謂レディオヘッドの、苦しみの果てに生み出された狂気のような素晴らしい音楽、というものではなくなってしまっていました。
もちろんそれは僕がただそう思うだけですが、前作までに感じた「あの感じ」がないのです。
ただの普通のなんでもない曲に聞こえたのでした。
トムさんと奥さんは学生時代からの仲でした。
彼女が去って行ってしまったことは、仕方のないこととはいえ、彼にとって、あらゆるものを奪い去ってしまったのかもしれない。
失われて、もう取り戻すこともできないなにかが、あるのかもしれない。
彼らは、それによって、深く傷つき、絶望しているのかもしれない。
なにか、今回村上春樹の小説と繋がっているかのように思えたのです。