読書兎の書庫

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「壁と卵」の解題・あるいはカネという奴を信じないということについて。

2017年1月29日
これはただの文章、若しくは思考実験である。

金って言う奴から離れる。なぜならば……ということをいまから説明する。
例えば血液型占いや、血液型による性格判断が当たっていたとしよう。実際はどうだかわからない。そんなものないと科学が実証しているという人もいる。でも実際はどうだかわからないのはこの宇宙の構造も同じなので、ここでは、当たっているという仮定で考えてみよう。
A型の人間が複数いて、それぞれがA型の当てはまる項目に当たっていると感じたとする。その感じたこころは、そうだと信じたものである。かつて宗教がひとをそうさせたようにそうだと思わせられることでひとは暗示にかかる。いや、かからないかもしれない。でもかかるひともいるだろう。実際に血液型占いが当たっているかどうかは問題ではない。当たっているというこころが、こころのその部分をそういう風に定めている。
いまではインターネットにひとのこころを慰めるものがたくさんある。それは悪ではない。感じるこころの過剰さはあったとしても悪ではないだろう。ひとは虚ろう。言葉の羅列に序列や想定や判別、自らを除け者にされる差別、否応にも対応し難い苦痛に自ら進まねばならぬこともある。他者と自分は別の人間である。 別の人間であるということは、別の感覚を持つということである。それを同じ風に感じるであろうと想定するものが先の血液型占いに代表される想定である。血液型だけではない。宗教、思想、人種、性別、いろいろなものでひとは他者を、こう感じるであろうと想定する。例えば先の文章を「いろいろなものさし」で、といえば皮肉を言っていると捉えることもできる。そういうひとつひとつの言葉に一喜一憂する。金という言葉は、政治や宗教、思想や家族、社会や組織、個人や、その他もろもろの言葉よりもいまや強靭な言葉になっている気がする。これに匹敵するのはインターネットとかであろうか。
ジョージ秋山銭ゲバという漫画を描いてたころの金と、いまの金という言葉はとても違う意味のような気がする。言葉の意味は一世代で変わるものだから当たり前か。銭ゲバということばがあったときにはカネについていた印象には悪があった。きっといまなくなったのはその部分かもしれない。善でも悪でもなくただのカネ。でもその力は絶大に信じられている。しかし力はカネから生まれるのではなく、それを信じた多数の人間のほうから生まれるものである。その概念を選ぶものたちによって選びとられているのである。
多種多様な価値観がある。多種多様な生き様がある。それを短絡的に見誤らせるのはそうやって信じられている大きなシステムによる。
個別の小さなシステム(共同体やら家族)がまだ生きていたころとは違う世界にいる。そこでは他人のことを尊重出来ない人間になりやすい。あるいは、余りにもそのシステムからの要求が多すぎて人びとは疲れ果てる。まるで二流のSF小説のように、人びとはいろいろなものに小突きまわされているのだ。小突きまわされても、負け戦さだとわかっていても、私は卵の側でありたい。