読書猫の書庫

日常と本のメモ。

大事なことはすべてグランドレベルでやれ。

まちにパーソナル屋台を出して、コーヒーをふるまうことは、あくまでメタファーだ。屋台であることや、何をふるまうかは、実はそれほど重要ではない。本質は「マイパブリック(私設の公共)」が、誰にでも平等に与えられているグランドレベル(地階・地上・地平)において、どれだけ実践されているか、である。

 

「マイパブリックとグランドレベル」田中元子著

 

 

 

公共って実際なんなの?って感じだがそれを実践しちゃった人の話。

章は大きくマイパブリック編とグランドデザイン編に分かれていて、マイパブリック編では、なんとなく周辺の友達に振舞っていることが楽しくなっちゃっていろいろやってるうちに自ら公共を実践するまでの道のりが描かれる。

でも、公共というと大袈裟だけど、お金を介するとなんかサービスっぽくなってめんどいからタダでコーヒー飲みなよ。そのかわりなんか話でもしよう。

みたいな感じで枠が大きくなっていく。

枠の大きくなり方が著者ならではというか、誰にでも出来ることではないと思えてしまう。

 

最初は自分の事務所が4階かなんかにあって、そこに少しスペースがあるからバーみたいなことやろう、(この時点で意味不明だが) というのでやったら仕事関係の友達がたくさん来て、でも金取ったらなんかに引っかかるんじゃないの?

じゃあお金はいいよ、タダでいいよ。となって、そこから昔話みたいに展開していく。

これは楽しいもっとやろうということになり、普通に他の人にも振る舞いたいとなり、では1階にテナントを借りようとなるが、元々金を取る気がなく、テナント料は高すぎるのでどうしようとなる。で、リヤカーでやるかとなり、屋台みたいにやりたいがリヤカーなんかちがうとなり、建築関係の友達にパーソナル屋台というリヤカーのような小さな屋台(昔の紙芝居の人が持ってたようなもの、下の本の写真参照)を作ってもらい、それを引いて公園へ。

公園ではコーヒーなどを振る舞い皆と話をする。徹底的に趣味を貫き、自分もやってみたいという人を増やし、いつしかそれが人々に伝播して、、、

マイパブリックとグランドレベル ─今日からはじめるまちづくり

マイパブリックとグランドレベル ─今日からはじめるまちづくり

 

 

そして後半、グランドレベル編でははもはや倫理やら道徳的な価値観さえ持ち始める展開になる。

 

ひとも、モノも、グランドレベルも、ふるまう気なんかなくたって、誰かの目に晒された時点で、誰かに「与えて」しまっている。

きれいだとか、面白いとか、気になるな、といった視覚情報と、それによる印象を、瞬時に、大量に与えている。社会生活を営むということは、互いにその連続なのだ、だからこそ、どうせなら放っておいても「与えてしまう」ことになる「存在」というものに対して能動的に、自覚的に楽しんでいこうよ、という話なのである。

服装ひとつもマイパブリックになるし、家や店やオフィスだって、玄関先ひとつとってもマイパブリックになりうる。ついつい自分だけのもの、自分のためだけの環境、と思いがちだが、意外と誰かの視界に入っている。入らないわけがないのだ。みられたくないからと高い塀を立てても、それはそれで、その塀を見られることになる。

「マイパブリックとグランドレベル」田中元子著

 

話は人類とグランドレベルの関係へとシフトし、最後はグランドレベルに人びとが集いあえないまちは「死んだまち」と呼ばれるようになる。(シャッター街やビルや分譲マンションだらけのまち)

コペンハーゲンや幸福度の高い国ほど、グランドレベルに人がいるという。

 

全体的に説得力があり、確かにと思える部分が多い。まちが機能するのはやっぱり、お爺さんが公園の掃除とかを勝手にやってたりするみたいなところからなんだろうなあと思う。

からだを動かしたり、外へ出て話をしたりするほうが気分もいいよね。

最後の文章がイカしてるので引用して、終わります。

1995年。わたしがはじめて、パソコンに触れた年だ。(中略) わたしはすぐに夢中になった。夜の11時は、情報空間解禁の時間だ。モデムの接続音の向こうに、寡黙にして賑やかな画面の世界が待っていた。ハローワールド!

なんというマイパブリックな世界だったのだろう。みんな大したことができるわけでもないけれど、誰かとの出会いが楽しみで、自分のホームページを作っては、拙い写真や文章を、ホームページに公開していた。クオリティは二の次だし、公開されるコンテンツは、自分がインターネットの世界に存在するための、ただの口実に過ぎなかった。当時日本でのインターネット人口は、全人口の10パーセントにも満たなかった。だからこそ余計に、インターネットを介して何かに出会えるということが、新鮮で刺激的で、うれしかった。

今にして思えば、あの頃わたしたちは、情報空間におけるグランドレベルを共有していた。ホームページという玄関があり、みんなでそこを、賑やかに彩っていた。そのためのおかねなんか、どこからももらっていなかった。そうすることにむしろおかねや労力がかかっていてもいい。自分がしたいことだから、趣味の一環だったからだ。

その後、インターネットをとりまく環境は爆発的に整い、今やメールでさえ、SNSやアプリに取って代わられようとしている。個人のホームページから全世界へと発信されていた、あの拙くも無邪気な、無益なコンテンツたちは、いつの間にか、恥ずかしそうにどこかへ消えていった。つまりグランドレベルに自分の家を、自分なりの玄関を構える人は減り、まるで高層マンションに移住したかのようだ。そこでは管理費と引き換えに、何もかもを見ず知らずこ何者かに預けてしまえることによって、手間暇はかからなくなった。逆に、あてがなければ、どこにも行けないようになってしまった。

 

 

「マイパブリックとグランドレベル」田中元子著