読書兎の書庫

読書、音楽、映画、雑記

頻度とばらばらさ

最近インターネット関連の記事を見るときの指標にしていることがある。読書ブログに関しても言えることだが、

それは「毎日記事を更新しているようなところのブログは読まない」ということだ。

ひとというのは通常の生活があって、そのペースは毎日バラバラな感じがする。だから相当意図しない限り(あるいはネット依存にでもならない限り)毎日記事を更新しているというのは何だかそもそも変なことだ。せわしないし。

勿論仕事として書いてる記事ならわかる。けれども、ブログは仕事ではない。(や、仕事になってる人もいるだろうが)

 

生活というのはそもそもばらばらなことである。音楽も映画もことばもコミュニケーションもそもそも繋がらないことである。そこにも意味があったりする。

それが、繋がっている/いられる、幻想のようなものがネットにはあるんだろう。そのことは僕も知っている。

昔はよく毎日ブログを更新してる人を見てたけど、最近はそもそもその頻度に違和感を持つようになった。

2ちゃん(いまは5ちゃんだっけ?)を昔よく見た。

そこでは更新頻度(書き込み)の高さが重要なファクターであった。スレや板の更新頻度が下がってくることを「過疎」ると呼んだ。

そもそもシステムさえもそういう風になっており、放置されすぎたスレは落ちる。(なくなる)このシステムはブログなどにも応用されてる気がする。

例えば長い間記事を書かれていないブログに訪れると、このブログは何ヶ月書かれていないので〜、という注意書きとともに多くの連動広告が、まるで放置された家に生えた木の蔦のように沢山群がる。

 

かつて見ていたニコ生も同じで人気の生主というのは更新頻度が高くなくてはいけなかった。

その為にはいろいろなことをしなくてはいけない。それに耐えられる猛者たちだけが生き残っていった。

そしてそのあとにYouTubeやインスタの時代になり、もう追ってもないけれど、どこかしこで同じようなことが起こっているんじゃないかと思う。

ツイッターほど更新頻度をあげると、人は自分の書いたものも人の書いたものも、わすれるから、まあいいやとなる。

けれど、忘れないぐらいに記憶に保存されるタイプのシステムでは今度は依存を促すことが奨励されるシステムに(もはや見事なほど洗練された広告連動型システム)なっていく。

でもばらばらなほうが豊かじゃない?

というわけで、更新頻度を上げていく記事を書いてる人たちの中で、頻度が少なく、ゆっくり良い記事を書いてる人を探すにはどうしたら良いか、、、は、わからない。見つけられない。

あーめんどくさ。やめだやめだ。

本の続き読も、となるのである。