村上春樹「女のいない男たち」について⑴

2年前(2014年)に出された村上春樹の短編集、「女のいない男たち」を読了した。

村上作品は、単行本で出されているものは殆ど全て読んでいて、その面白さや、示唆や、無意識というか、潜在意識を軸にした物語のつくりも、思春期冷めやらぬ未だ高校生の頃から読んでいた。

未だ僕が村上春樹を最初に読んでいたころは、世の中はこんなに村上春樹を絶賛していなくて、どちらかというとメジャーなのは村上龍とか、それこそ文壇と呼ばれる場所にいる人たちだと思っていた。

でも僕も「1Q84」以降は、だんだんと村上春樹を離れていったというか、だんだんと「現実的な人間」になってしまっていて、彼の小説にある、「自分と世界を繋ぐ異世界」というか、「違和感」というようなものから離れかけていた。

 

2年程前、神戸の芦屋と夙川に旅行したことがある。

ここは村上春樹の育った(生まれた?どっちか忘れた)場所で、何度かそのことは彼のエッセイなどに触れられている。その場所に自分が行ったとき、僕はとても奇妙な経験をした。

それは、一言で言うと「違和感」だとも言えるが、何か、そこが「しっくりとくる場所」という感じでもあった。

日本の他の土地にも行ったことはあるが、こんな変てこな雰囲気を感じた場所は他にはない。何が変なのかはわからないけれど。

 

話が脱線したが、兎も角、僕はまた村上春樹の短編を手に取った。もちろん新作が出るから予約した訳ではなく、図書館の隅に置かれていた本を手に取っただけだが。

以前からこの本の存在は知っていたし、村上春樹はほとんど全部読んでいるのだから、彼のモチーフがなにか(その中心にあるものは今でも「ねじまき鳥クロニクル」だと思う)はなんとなくわかっている。

そしてこの本のタイトルは「女のいない男たち」であり、それってあまりにも露骨なんじゃないの?って気もするタイトルで、今迄の、「神の子どもはみな踊る」とか、「海辺のカフカ」とか「ねじまき鳥~」や「蛍、納屋を焼く」とか、まずタイトルでワクワクする感じがないのと、前作「色彩をもたない多崎つくると〜」の割としっくりこない読後感のことも相まって、流石に今回はスルーするかなとほっておいたのだけれど、突然先月の始めぐらいにこの本を手に取り、多分出た当初にはちらっと読んだ「まえがき」をあらためて読んだ訳なのです。

 

この「まえがき」が書かれているというのも、村上春樹作品にはあまり例のないことであり、やっぱり村上さん調子よくないのかな、或いはこの短編は力を入れてないのかな、などと本屋で思った記憶があります。

 

それで2年が経ち、今回この本を手に取ったとき、ぱらぱらっとめくったときに、なんとなくなにが書きたいのかをわかった感じがして、決して村上さんは手を抜いてる訳じゃなかったと思い直し、読もうと思ったと、そして読了しましたと、(ああやっと話の最初のところまできた。)そういう経緯なのです。

 

村上春樹の作品を読んでいる人は大きく分けて2種類いると思います。

ひとつは、皆が読んでいてベストセラーで、ノーベル文学賞候補だから、みたいな、村上さんに言わせれば「普通のひとたち」そしてもう一つの種類が、村上春樹作品と自分の人生に不思議なリンクや、奇妙な一致を感じるからその本が読みたい、みたいな人たちだと思います。

村上春樹の作品に対する意見も、世の中ではきっぱり二つに分かれ、その批判的なほうは、要するに全ての登場人物が「村上春樹」であり、他者が出てこないというものです。

それは確かにごもっともなことで、じゃあなんで村上さんがなぜ心理学者の河合隼雄さんとの対談を大事にしたのかと言うことなのです。それにそんなことは批判にならないし、読みなくなければ読まなければよいだけなのです。

 

僕はカフカの作品もとても好きですが、彼の作品も村上作品同様、ほぼ他者がいません。自意識、或いは無意識のなかをぐるぐるまわってる感じなのです。それが心地よい部分でもあるのです。

でもきっとカフカは、きっと完全に他者のいない小説を書きたかったんじゃないでしょうか。

 

もちろん、村上さんはそうではありません。彼には、「女性」が必要なのです。

 

というわけで、長くなり過ぎたので続きは明日書きます。

 

 

 

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)