読書兎の書庫

読書、音楽、映画、雑記

今日も負けてスポティファイを聴く。

例によってとりとめのない話。
ルービックキューブがある。くるくるまわして、同じ面の色を一つの色にする正四角形の玩具。
いま音楽の話をしてみている。

昔、レコードがあった時には、あるいはラジオで皆が音楽を聴いた時にはその人々は、
想像力を働かし、イメージをしてその音楽を奏でている人々を想像した。
そのあと、ずっと飛ぶけれどテープレコーダー。
テープが出てきてそのテープの磁気に音が入ってるなんてなんてファンタジーなものだと想像した(これは自分が)。
それで、CDが出てきた。逆?どっちでもいい。
コンパクトディスクは、そのプラスティックの輝く盤面に音が入っていた。
それは素敵なものではあった。MDというものもあった。
録音ができるというのは、いつも素晴らしいことだと思う。

保存できるという事は、所有をあらわしているのかもしれない。
2000年紀も20年近くなって、今は未来。現在はスポティファイなどの音楽を共有したインターネットサーヴィスに月額課金をして、
(そこにある)全ての音楽がいつでも聞けるようになっている。
音楽の図書館に膨大なアルバムが所有されていて、

そこを維持する/アクセスできる権限を皆で少しずつお金を出し合って
その場所を共有しているわけで、これは素晴らしいというか、ほぼ完璧なデザインだと思う。
それでルービックキューブって何?
ルービックキューブの小さな、組み合わさる面の一つ一つが、昔は想像されていた。音楽、誰も知らない、知らないから想像される。それはジャンルであり、国であり、音楽だった。
でも現在のスポティファイのようなデザインの前では、ひとりの日本人のミュージシャンのシングルが、あらゆる膨大な蓄積とともに提示されている。

とても刺激的だ/でもある。
例えば坂本慎太郎コーネリアスのアルバムをCDで買うことと、ストリーミングで聴くことは、うごきとしては、同じだ。

でも何かが違う。それは想像と所有の関係かもしれない。
もう持っているのだと、人間は思えない。地球は私たち一人一人が、、、そらごとに聞こえる。音楽もそこまで来てしまったのかもしれない。

でもちいさなミュージシャンが、それも世界中にいるものが探し、聞ける。
最高の事で、そんなちっぽけな所有欲とは比べられず、負けてスポティファイを聴く。
でもどこかで、かつてのパッケージされた商品を開ける喜びを味わえていない悲しみがある。
ももう仕方がない。ミュージシャンも聞く方も、もう後戻りはできないのだ。