2018年元日から。
本の話ではないけれど。
換気扇が動かない。いや、正確に言うと動かない訳ではなく、スイッチを入れて少しの間止まっていて数秒後にカタカタカタと仕方なく動きだすのだ。動きはじめると忘れていた記憶を思い出したように軽快にまわる。止めてもその後すぐにスイッチをひくとまた問題なく回ってくれる。だからああ大丈夫かと思い、ほおっておく、しかし止めて、また次の日にスイッチを入れると動くことを思い出すことにまた数秒かかる。その繰り返し。またスイッチ入れると動かないのかなって感じが、頭をもたげる。いっそのこと止まったままになっていてくれれば、大家さんに言って直してもらおうと思える。換気扇くらい自分で代金を出して直しても構わないが、借家の換気扇をわざわざ自分で直してどうする。しかし近くに住んでいる大家を呼び止めて、あの換気扇壊れたんですけど、、などと言うのは、なんだか言うまでは気を病んでしまう。きっと言えばなんてことはない。言ってしまえばなんでもなかったと思えるはずだ。でもそれまではああでもないこうでもないとその気持ちが頭の中をくるくるまわる。
「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」①
大破局かなにかで人類が去ったあとの世界の荒廃と、その後の立て直しかたが、詳細に、丹念に描かれている。
なによりも、今現在の何が、その問題に繋がっていくのかが、書かれてあってすごい。例えばよく言われる地球温暖化は、イメージとしてはなんか地球があったかくなってるって感じだけど、この本では、そうは書かれていない。
人類は地下を掘削して、過去の時代に蓄積され埋蔵された化学エネルギーを掘りだしてきた。
こうした化石燃料、つまりすぐさま燃える炭素の塊は、古代の森と海洋生物の死骸が腐敗してできたものだ。
すなわち、はるか遠い昔の地球に降り注いだ太陽光をとらえることで得られた化学エネルギーだ。
この炭素はもともと大気から得られたものだが、問題は僕らがその貯蔵物を急速に燃やし過ぎているため、何億年間分もの固定炭素がわずか百年あまりで大気中に放出され、工場の大煙突や車の排気ガスとして吐きだされていることにある。
これは放出された二酸化炭素を地球のシステムが再吸収できるよりもずっと急速であり、今日では十八世紀初めよりも約四十%多い二酸化炭素が空気中にある。
二酸化炭素のこの高い濃度がおよぼす影響の一つは、太陽の熱が温室効果によってより多く地球の大気にとらえられ、地球温暖化へとつながることだ。そうなると今度は海面が上昇し、世界中で気候パターンに混乱が生じ、場所によってはモンスーンの洪水がより頻繁に大規模で起こるようになり、別の地域は干ばつに見舞われ、農業に深刻な余波が生じる。
こんな調子で破局後、まで話が展開していく。特にこの後に書かれいる、
大破局後の世界は、この地球のシステムのなかにすでに蓄積された勢いから、つづく数百年間は数メートルの海面の上昇を経験する可能性が高い。
温暖化によってメタンを封じ込めてきた永久凍土が解ける、あるいは氷河が広範囲で融解するといったドミノ効果が引き起こされれば、その影響はさらに悪いものとなるだろう。
二酸化炭素濃度は大破局後は下がるものの、かなり高い値で推移しつづけ、産業革命前の状態には何万年間も戻らないだろう。
そのため、僕らの時間の尺度では、もしくは後世の文明の尺度でも、地球のサーモスタットが強制的に吊り上げられたこの状態は基本的に永久のものとなり、現在の能天気な生活様式は、僕らのあとに世界に住む人びとに長期にわたって陰鬱な遺産を残すことになる。
という部分では、南極の氷の変化など、すでに現在少し起こっているのでは…という箇所もある。
と、少し書き出しただけでもはっきりと明確に書かれていて、驚く。
2017年 この半年で聴いた音楽(邦楽篇)
音楽関連、今年知った、ここまでで聞いたアルバムでよかったもの暫定で。
① d.a.nのミニアルバム 「tempest」
d.a.nは去年出したアルバムがとてもすばらしく、あんまり知られてないかもしれないけれど有名になって音が変わって欲しくないなと思わせるバンド。
レディオヘッドとか電子音楽やアンビエントが好きなのかな、という感じ。
②ジャズ ドミュニスターズのセカンド
ジャズミュージシャンの菊地成孔さんと、ええと、大谷さんのラップのチーム?のセカンドアルバム。子どもは聞いてはいけないラップアルバム。子どもっていうかなんか一言で言うと筒井康隆の小説みたいなアルバム。凄いよほんと。
Cupid & Bataille, Dirty Microphone
- アーティスト: JAZZ DOMMUNISTERS
- 出版社/メーカー: SMD
- 発売日: 2017/06/07
- メディア: CD
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③コーネリアスの新作
まだシングル2作しか公開されてないけれど、やっぱり小山田さんは凄かった。邦楽はとんと聴かなくなったけれど、コーネリアスはね。
音の洗練された感じが凄いきらきらしてる。
④幾何学模様 (kikagakumoyo)
日本ではほとんど知られてないけど海外では知られてるバンド?なのか?
音のこもり方がよい。
⑤土岐麻子 pink
土岐さんは今まであんまり好きじゃなかったけどこのアルバムはとてもよかった。プロデューサーのせいなのだろうか…
今日も負けてスポティファイを聴く。
例によってとりとめのない話。
ルービックキューブがある。くるくるまわして、同じ面の色を一つの色にする正四角形の玩具。
いま音楽の話をしてみている。
昔、レコードがあった時には、あるいはラジオで皆が音楽を聴いた時にはその人々は、
想像力を働かし、イメージをしてその音楽を奏でている人々を想像した。
そのあと、ずっと飛ぶけれどテープレコーダー。
テープが出てきてそのテープの磁気に音が入ってるなんてなんてファンタジーなものだと想像した(これは自分が)。
それで、CDが出てきた。逆?どっちでもいい。
コンパクトディスクは、そのプラスティックの輝く盤面に音が入っていた。
それは素敵なものではあった。MDというものもあった。
録音ができるというのは、いつも素晴らしいことだと思う。
保存できるという事は、所有をあらわしているのかもしれない。
2000年紀も20年近くなって、今は未来。現在はスポティファイなどの音楽を共有したインターネットサーヴィスに月額課金をして、
(そこにある)全ての音楽がいつでも聞けるようになっている。
音楽の図書館に膨大なアルバムが所有されていて、
そこを維持する/アクセスできる権限を皆で少しずつお金を出し合って
その場所を共有しているわけで、これは素晴らしいというか、ほぼ完璧なデザインだと思う。
それでルービックキューブって何?
ルービックキューブの小さな、組み合わさる面の一つ一つが、昔は想像されていた。音楽、誰も知らない、知らないから想像される。それはジャンルであり、国であり、音楽だった。
でも現在のスポティファイのようなデザインの前では、ひとりの日本人のミュージシャンのシングルが、あらゆる膨大な蓄積とともに提示されている。
とても刺激的だ/でもある。
例えば坂本慎太郎やコーネリアスのアルバムをCDで買うことと、ストリーミングで聴くことは、うごきとしては、同じだ。
でも何かが違う。それは想像と所有の関係かもしれない。
もう持っているのだと、人間は思えない。地球は私たち一人一人が、、、そらごとに聞こえる。音楽もそこまで来てしまったのかもしれない。
でもちいさなミュージシャンが、それも世界中にいるものが探し、聞ける。
最高の事で、そんなちっぽけな所有欲とは比べられず、負けてスポティファイを聴く。
でもどこかで、かつてのパッケージされた商品を開ける喜びを味わえていない悲しみがある。
でももう仕方がない。ミュージシャンも聞く方も、もう後戻りはできないのだ。
村上春樹 「騎士団長殺し」 スタバで読むのではあらない
(ネタバレも少しはあります)
「騎士団長殺し」発売日に買ったのに、やっとこさ読了。
ル・グィンばっかり読んでて、こっち忘れてた。
世界から注目されているプレッシャーって、想像できないなー。
話の流れや落ちはともかく、、、
その「物語を信じる力」を描く力量や執念はやっぱりすごい。
・子供という存在に対すること。
・女のいない男たち
はモチーフになってるんだろうなあ。
2月に出して、普通の人ならちょうど3月11日辺りで読み終わるんだろうなってとこも、メンシキさんばりの計算なのだろう。
気になったのは、本編と関係ないけど、スターバックスを何度もディスってるところ(笑)と、音楽の聴き方に対する憂い。
後半のストーリーの勢いはちょっと[世界の終りとハードボイルド~]的な輝きがあった。
よくわからん理由で奥さんが離れて行って、イデアの人もメタファーの人もなんたらフォレスターの男も、わたやのぼるてきなめんしきわたるも、武器も(バットじゃないけど)完璧な隣人とか、ちらっと出てくる運転手とか、週一で会いに来る完璧な愛人とか、主人公はあまりお金を稼がなくてよくて、異世界にも行けるし、イデアの人のしゃべり方の特徴とか。カフカの門番みたいな顔の無い男とか、壁抜け的なこととか。。。
でもわたしはこのほんのほんとうのよみかたをしっている。それはしょくんにもおしえられない。このほんはそのようにして、できているのだ。そのようなよみかたには、すじがない。いどをつたってわたるいきもののように。かわのわたしのところにいるもんばんのように。あのせまいつうろのように。
しんじるということだけが、もじどおりのこのほんの、よみかたなのである。
「壁と卵」の解題・あるいはカネという奴を信じないということについて。
2017年1月29日
これはただの文章、若しくは思考実験である。
金って言う奴から離れる。なぜならば……ということをいまから説明する。
例えば血液型占いや、血液型による性格判断が当たっていたとしよう。実際はどうだかわからない。そんなものないと科学が実証しているという人もいる。でも実際はどうだかわからないのはこの宇宙の構造も同じなので、ここでは、当たっているという仮定で考えてみよう。
A型の人間が複数いて、それぞれがA型の当てはまる項目に当たっていると感じたとする。その感じたこころは、そうだと信じたものである。かつて宗教がひとをそうさせたようにそうだと思わせられることでひとは暗示にかかる。いや、かからないかもしれない。でもかかるひともいるだろう。実際に血液型占いが当たっているかどうかは問題ではない。当たっているというこころが、こころのその部分をそういう風に定めている。
いまではインターネットにひとのこころを慰めるものがたくさんある。それは悪ではない。感じるこころの過剰さはあったとしても悪ではないだろう。ひとは虚ろう。言葉の羅列に序列や想定や判別、自らを除け者にされる差別、否応にも対応し難い苦痛に自ら進まねばならぬこともある。他者と自分は別の人間である。 別の人間であるということは、別の感覚を持つということである。それを同じ風に感じるであろうと想定するものが先の血液型占いに代表される想定である。血液型だけではない。宗教、思想、人種、性別、いろいろなものでひとは他者を、こう感じるであろうと想定する。例えば先の文章を「いろいろなものさし」で、といえば皮肉を言っていると捉えることもできる。そういうひとつひとつの言葉に一喜一憂する。金という言葉は、政治や宗教、思想や家族、社会や組織、個人や、その他もろもろの言葉よりもいまや強靭な言葉になっている気がする。これに匹敵するのはインターネットとかであろうか。
昔ジョージ秋山が銭ゲバという漫画を描いてたころの金と、いまの金という言葉はとても違う意味のような気がする。言葉の意味は一世代で変わるものだから当たり前か。銭ゲバということばがあったときにはカネについていた印象には悪があった。きっといまなくなったのはその部分かもしれない。善でも悪でもなくただのカネ。でもその力は絶大に信じられている。しかし力はカネから生まれるのではなく、それを信じた多数の人間のほうから生まれるものである。その概念を選ぶものたちによって選びとられているのである。
多種多様な価値観がある。多種多様な生き様がある。それを短絡的に見誤らせるのはそうやって信じられている大きなシステムによる。
個別の小さなシステム(共同体やら家族)がまだ生きていたころとは違う世界にいる。そこでは他人のことを尊重出来ない人間になりやすい。あるいは、余りにもそのシステムからの要求が多すぎて人びとは疲れ果てる。まるで二流のSF小説のように、人びとはいろいろなものに小突きまわされているのだ。小突きまわされても、負け戦さだとわかっていても、私は卵の側でありたい。