読書兎の書庫

読書、音楽、映画、雑記

過去は古く未来は新しい、のか?

 

過去は古く未来は新しいというイメージは昔からある。例えば機器は発達する。進化論という考えかたをダーウィンが唱えたり、ビッグバンの概念とかから現在のそのイメージがある気がする。でも聖書とかの時代にはそうではなかった気がする。新しくなればなるほど駄目になるみたいなニュアンスがあの頃にはあったような気が。でも確かに機器は発達する。iphoneやらなんやらは。でも人間自体は全然発展してない気がする。社会は回っているようでいてそんなこともない気もする。環境は破壊されまくってる気がする。人々はもう身近な環境にも配慮しなくなった気もする。やっぱり昔のほうが良かったんだろうか。他の動物が順応することはあったかもしれないが、進化したみたいなのは、よくわからない。新しい何かになったってのは、あんまりよく知らない。火星にローバーはある。それを動かすシステムはある。もうレコードよりストリーミング の時代だ。でもそれって音楽が進化してるってことでもない。ただ要領良くなったってことでないの?めんどくさいことがなくなった。川で洗濯をし、山に芝刈りに行く必要はない。それを良しとしたのは功利主義みたいなものだし。それでいい結果がでてるかは、まあ見ればわかるけど、出てない。けど始めたことはやめられないから続ける。ただそれだけのことかな。

過去を掘り返して見ればそこに新しい発見があるかもしれない。けれどそこからやり直すことは出来ない。考えかたは変えられるけど、最近は柔軟じゃないね。本読まなくちゃ。

伝承と文学

昔のボブディランを聴くと(それはかつて僕が若かったときの話だけれど)、まるでヒップホップのようだった。こう思った。こんなのは歌詞が分からないとわからない音楽じゃないか。もちろん洋楽をいろいろ聞いてたから成り行きぐらいは知ってる。ユダって呼ばれたりとか、宗教やってみたりとか。そんなこんなで2010年代の終わりには、すっかりオールディーズを歌っている。

でもいまのボブディランって、古い音楽を歌っている。素敵だなあと思う。若いころのボブディランも、もちろんいま聴くとそれなりにいいなと思うけど、いや、いまのほうがいいな。

 

そして、僕は最近ウディガスリーはわかるようになった。

ウディガスリーにたどり着くまで、どれだけの曲を聴くことを必要としただろう。その前を何度通り過ぎたことだろう。

音楽も小説も結局は伝承とリズムだった。経験がなければわかることもない。

完璧なものそれは作り続けている瞬間だけだ。

と考えた。どんな素晴らしいものも作品も風化するし、他者のそれを考えると差異が生まれるし、その瞬間に没頭してなにかをしている状態だけは、完璧かもしれない。でも俯瞰はできないな。批評も、評価も出来ない。だからいいか悪いかはわからない。でも続けているその瞬間だけは完璧だと言えると思う。過去のなにかを完璧だと言ったりすることは危険だ。だってそんなこと明日には変わる。人は変わり続けるから、ずっとそれに打ち込むしかない。毎日こつこつとそれをやり続けるしかない。そんな風にふと思った。

昨日の今日で暑さは凪(でもない)

 

技術は進歩するって言うけど、それでホントに人間は進歩してるかは謎って話で。技術はえらい進歩した。例えばSNSでもパソコン通信から始まって、(正確な名前忘れたけど)mixiとかブログが最初あった。そのあとがツイッターとかフェイスブックだったっけ?そんでいまはインスタとかいろいろ。

その昔ブログをやってたころは、長い文章を書くのにとても悩んでた。どんなこと書こうかなとネタ探しをしたりした。でもいろいろな新しいSNSが出てきて、そちらへ移行していった。

フェイスブックはやらなかったけど、mixiはなんか距離感が近すぎるし、ツイッターはただ呟いてる人たちの集まりって感じで、そこがいいっちゃあいいんだろうけど、だからまだ続いてるんだろうけど、ブログとは違うよね。

それでそうインスタは、もういいか。目新しいシステムほど、簡単で視覚的で面倒いことがないから流行るし、広がる。でも生きてる人間は昔ながらに面倒くさいから、システムが新しくなっても、やってることは一緒だよね。

簡単になってる分、人々の表現の幅と、それを見るものの判断の幅が狭くなって、つまり自分のほうは受け身のままで良くなってる感が強まるから、炎上とかも増えるし、文句多くなる。

小説家の森さんが昔ブログやってたころは、インターネットも面白かったのになあ、の、「面白い」とは、たぶん余地とか余白のようなもの、のりしろがたくさんあったということ。

だからまたここで文章書いたら、楽しくなるかな、って、それはわからないな。

 

最近なんかの記事読んだとき、この文章は何分で読めます。って書いてあるけど、あれなんか典型的な余白のなさだよなあ。

弱さと罠

アプリゲームなどをやめて、iphoneのいつも手がそこに行こうとするようなアプリを棄てると、青空文庫のような有志が集まって構築した文章などにアクセスできる。できなかったのは自分の意思の弱さで、もともと意思の強い人間はゲームなんかせずともなんでもしたいようにやるのかもしれない。しかし私は意思が弱いのでまあ全然、見事に術中にはまる。いまはカフカの城を青空文庫で読んでいる。文庫版も持っているので、iphoneで読み進めた分は、本のそのページまで付箋をのばす。翻訳は違うけれど、長いし完結してないイメージの城を読むためにはこのくらいしないといけないかもしれない。弱さを補わないと、この繋がりの強い世界には罠が多すぎる。

グダグダって漢字あるのかなと思ったらgdgdしか出てこなかった。

過去の文章を振り返って、つまんねえこと書いてんなって書こうと思ったところが、振り返ってのところが、「ふかえりって」になってる。ふかえりってなんだっけ?村上春樹の登場人物だったっけ。世の中はなんだか金ひとつが重要になっちゃって神社の境内とか、静かな小径とか、現実の細やかなことがなんだか全部うっちゃってるような感じ。なんだかなあ。夏休み子ども電話相談とか聞いてると和むけど、インターネット上とかアプリゲームとかは殺伐としてる気がする。青空文庫とかでいいのに。僕はもう電子的なゲームはぜんぶやらないことに決めた。なぜかって言うと無駄だからだ。アプリゲームってのは、ユーザに続けてもらうことこそが大事なようで、それは要は課金していただきたく存じますということ。例えば何かひとつのものに課金したとしても、(僕はしたことないのだけど)そのすべてはそのゲームがいつか終わるときには海の藻屑である。なにも残らないのである。そもそもなにも残らないというのはネット上のすべてであるかもしれず、この文章も海の藻屑である。ゲームの全てのイベントは飽和するし、何より満たされない。

ゲームをたくさんしてた訳ではないけど、その時間もテレビと同じで意味ないなあと、味濃いなあと、思うようになったと。ばってん。

このごろは太陽の日差しが強く、ロードバイクでうろうろするのは暑いけど、ツールドフランスとか見てるとやっぱすげえなあと思う。軽四でもガソリンで1リットル150円で13キロとかしか走らないのに(推定)あいつらは100キロ以上のスピードで超級山脈を駆け下りる。登るのだって大変だ。平坦なとこでもスピード50キロとか普通に出るし、毎日180キロとか走ってる。

なにか勇気をもらう。ただ自転車で走ってるだけってところがいい。

ル・グウィン「オメラスから歩み去る人々」

ル・グウィンの「風の十二方位」に所収の、「オメラスから歩み去る人々」を去年(2017年)に読んだ。短編でページ数は10ページぐらい。

簡単な概略としては、

  オメラスという国が幸福に繁栄している。その国には、あらゆる人々がいる。国家を形成する男性女性、性格もいろいろなあらゆるひとたち。

子どもたちもたくさんいて、皆、幸せそうだ。音楽を奏で、皆が踊る。この国では、「君主制奴隷制が排されているだけでなく、ここには株式市場も、広告も、秘密警察も、爆弾もない。しかし繰り返すが、彼らは決して単純な人たちではなく、またおめでたい羊飼いでも高潔な野人でも退屈なユートピア人でもない。彼らは私たちと同様に複雑な人間だ。」

彼らは無邪気で幸福な子どもではない。

ル・グウィンは言う。

幸福なオメラスの人々を想像させることは難しいとル・グウィンは言う。人間は苦痛や邪悪、をリアルなものと認め、幸福さをなんとなく愚劣なものとイメージするようになっている。そんな人間たちに、彼らオメラスの人々の幸福感を伝えるにはどうしたら良いかとル・グウィンは苦心する。つまりそれほどに彼らは幸福なのである。棄て去ることのできない幸福。

そして、そんな幸福な人々がその国家のルールにひとつだけ用いていたのは、

たぶんこれは魔法とか、契約とかいうものなのだろうけれど、、

たったひとりの少年を地下に閉じ込め監禁することだった。10歳ほどの、栄養もまともに与えられず虐げられている子ども、その子どもが地下で、或いは洞窟で不幸に存在することがこの国家の幸福を維持する、存続させるルールである。

大人たちは自分の子供がそのことが理解出来る年頃が来ると、そのことを説明する。子供たちはそれを受け入れることが出来ずに大きくなるまでにとても戸惑う。なんとかできないものかと迷う。しかし最後には、彼がそこから出ても良いことなどないと自分を納得させて、それで良いとしてしまうのだ。

このオメラスから、時々去る人々がいる。彼らは、そのオメラスの門を抜けひとりで荒野へと向かう。オメラスという幸福な場所とは比べものにならない土地。そういう場所へ去っていくのだ。